| ビルとビルの隙間を、表に向かって仁王立ちした太い男が塞いでいた。背中合わせに筋肉質の男が立って、目の前の瑞貴と翔策を見下ろしている。瑞貴と翔策は両手両足を荷造り用の紐で縛られて地面に座らせられており、口にはガムテープで蓋をされていた。すぐ脇には、叩き壊されたケータイが一台。 その奥では、頭を奥にして仰向けにされたろろみがふたりの男に弄られていた。ろろみの両脚はやはり紐で縛られたうえ、黒メガネの男の両膝に押さえつけられている。 黒メガネの男は息を荒げながらろろみのベージュ色のスカートに手をかけた。乱暴に引き裂いたりはしない。その代わり、スカートの裾を丁重に指でつまみ上げた。 「ああろろみたんろろみたん、夢じゃないんだねぇん」 見かけによらぬダミ声でつぶやきながら、男はスカートに自分の顔を何度もすり寄せる。続いてコンパクトデジタルカメラを取り出し、ろろみのスカートをめくり上げ、ショーツをつけたままの下半身を何枚も撮影する。 しかし、決してショーツに手を触れようとはしなかった。 ろろみの全身をはさんで黒メガネの男の反対側にいるのは、残りのひとり、背の高い男。初めは立って、次にしゃがんで、しまいには腹ばいになって同じ目の高さで、ろろみの顔を凝視し続けていた。 「うーん、笑顔もいいけど、恥じらいと怒りの入り混じった表情も素敵だねえ」 「タオルを咥えた口がセクシーだよ」 「この屈辱をバネに新作書いてね。期待してるから」 感情を逆撫でするように、幾度となくろろみに囁きかける。 黒メガネの男が下半身の撮影を始めると、背の高い男も触発されたのか腰のケータイを右手に取り、内蔵カメラをろろみの顔に向けた。 男の左手のほうは、ろろみの細い両手首を強くひとつに握っている。 「脈拍が落ち着いてきたねえ。さすがろろみちゃん、度胸あるんだ？」 いったい何なのか、この男たちは。 自分をねらう目的で後をつけてきたのは間違いあるまい。 もしや、スプリット体だとばれたのか？ どこかの人体研究施設かマスコミの関係者が自分をつかまえにきたのか。いや、違う。自分だけとっとと拉致して、どこか安全なところで尋問なり身体検査なりをするはずだから。 あるいは、ライバルのアイドル作家、珠橋せれ菜か中島香子あたりが放った刺客か？ けれどもそれなら、自分の顔にダメージを負わせてアイドルとしての価値を下げようと考えるだろう。 よって、単なる微風ろろみファンの変質者集団に違いない。それも、体格と体力と体重はあっても格闘術は素人の。言動からもそれがわかる。 一時はどうなることかと思ったが、両手両脚と口を拘束されただけで、自分の肉体を瑕物にされないのは幸運だった。 上体だけは自由が利くけれども、抵抗はもうあきらめた。そもそも喧嘩に強い男ではなかった上に、今はろろみの体。瑞貴と翔策ですら歯の立たなかった四人を相手に腕っぷしで勝てるはずがない。逃げ出すことさえ無理だろう。 今のところは凶器が出てこない。生命や純潔は安泰だろうから、ここはおとなしく様子を見たほうが賢明ではないか。 屈辱的な写真を撮られたことだって、あまり怖くはない。公開されれば微風ろろみのアイドル生命は終わるだろう。けれどそれも自分の望む結末のひとつ。中編短編一作ずつで微風ろろみを思い出に封じて、本来の人生に専念すればいいだけなのだから。 気分はなぜか鎮まっていく。肉眼とカメラの両方の視線で自分を弄り回す男たちも、夕方のニュースの海外ビデオコーナーみたいだ。 けれど、落ち着けない自分も確かにいた。 この状況なのに肉体や貞操に危害がないなんて、却って不気味じゃないか。 簡単にずらせるはずのショーツを、黒メガネの男はどうしてずらさないのか。ショーツの上から手を触れようともしないのか。背の高い男にしても、なぜ手首だけは紐で縛らず、わざわざ自分の手で握り締めているのか。理解しがたい。 不思議なこだわりがあるように思えてならなかった。 加えて、男らの声は鳥肌が立つくらいにキモ優しい。 そう、Ｓ伸一郎に近いものがあった。目つきだって、さっきのＳ伸一郎と似たように湿っているし、口元はにんまりと緩んでいる。 同じ、変態だ。 違うのは、本気だということ。 「写真はこれくらいにしとけ。さあ、剥くぞ」 不意に低くなった声で、背の高い男が言った。膝立ちになり、左右それぞれの手でろろみの手首を一本ずつつかみ直す。 ろろみは、腕の自由度がわずかに上がったように感じた。だがそれはぬか喜び。振り回そうとすれば、却って腕の非力さを再認識させられるだけだ。 背の高い男に呼応するように、黒メガネの男もカメラを地面に置く。 そしてなんと、ろろみの首元に手をかけてきたのである。 リボンのホックが手早く外され、ストラップがブラウスから引き抜かれる。 続いて上着のボタン。ああ、ひとつボタンのボレロはこういう場では無防備なのか。 上着の袖を腕から抜くとき、腕の束縛が一瞬緩む。しかし抵抗を試みるも、指は虚空を掻くばかり。 「バタバタするなよ。折角の制服が破れるじゃないか」 ふたりの男の動作は連携がとれていた。ろろみのボレロは慎重に、しかし素早く剥ぎ取られた。 黒メガネの男はそれをご丁寧にも畳んでから、リボンといっしょにポリ袋に入れた。次いでブラウスの第一ボタンを難なく外し、第二ボタンへと手を伸ばす。 今や、落ち着かない自分だけが残っていた。 変態め。 Ｓ伸一郎にだって、ここまでされたことはない。 自分はこのまま、最後の一枚まで剥かれて食べられてしまうのか。 いや、今の自分はキャベツかもしれない。食べられるのは剥いた皮のほうで、芯には用無しの。 なにしろこいつら、ショーツをずらそうともしないのだから。 「慎重に剥けよ、破きでもしたらオークション価格が下がっちまう」 優しげな脱がせ方は、この身体がためではない。 膨らみつつある女の自覚にとっては、それもまた恥辱である。 あんまりだ。ひどいよ。助けて。だれか助けて。 この男たち、微風ろろみのファンのはず。なのに、どうしてこんなことができるのか。 『ファンじゃないですよ。転売屋でしょう。ろろみさんが人気アイドルだからというだけで目をつける。あいつらには愛がないんです』 汗と涙でかすんだ視界の向こうに見える翔策の目が、そう語りかけるように見えた。 半分だけ、頷いた。だが１００パーセントの同意はできなかった。 こんな奴らだってファンとだけは認めたかったから。それと付き合うのもアイドル作家の宿命だ。もし付き合いきれなくなったら、逃げればいい。逃げる先は……きっとまだあるはず！ あいつには本当に失礼なことをした。こんな変態どもと同じに扱ってしまうとは。 刷り込まれた感情なんて、どこかへ行ってしまえ！ その思念に呼応するかのように、近い遠くから悲鳴の閃光が――。 |
| 太い男の前に、珍しく通行人が現れた。今時めいた軽薄そうな女子高生、そして同じ学校らしい小柄な男子高生が続けざまに通り過ぎていく。下校途中らしい。 いや、通り過ぎない。太い男につかつかと近づいてきた。 「ねえお兄さあぁん」 女子のほうが男に目を合わせ、意味ありげに言葉をかけてくる。 「あたしってどう見える？」 「なんだ？」 気をとられた男は女子高生に体を向けた。その直後、声にならない声をあげ、立ったまま硬直する。 気絶した男の背後から、さっきの男子高生がぴょこりと顔を出す。手は棒状の物体を握ったままピースサイン。 「威力ばっちり。動作試験どおりよ」 「すごいリサ、さすが１００万ボルトのスタンガン」 女子高生も、親指を立てて応えた。 「おい、どうした！？」 振り向いた筋肉質の男の顔に、史枝のカバンが直撃した。 間髪を入れず、史枝はグーで男の顔を殴りつける。 怯んだ男の腹部に、またもやリサの武器が一閃。こちらは気絶こそしないものの、腰を抜かしたようにしゃがみこむ。 史枝はその隙間から奥へと入り込み、瑞貴の口のテープをはがした。 「あんた、補習エスケープさせた責任とってよ」 「合格点とれなかった小出が悪いんだろ」 そんな罵り合いとはミスマッチに瑞貴の自由が回復された。 気を取り戻した太い男を、身長１８０センチの覚が威圧しながら外へ連れ出す。覚の手にはリサから手渡されたスタンガン。火花を目当たりにすれば、太い男にさっきのショックが甦る。 筋肉質の男の前には私服の青年が立つ。さっき逃げ出したときとはまるで違う堂々たる態度。 「おまえも仲間だったのか？」 「まあな。今度は相手させてもらうぞ」 言いながら伸一郎は、立ち上がりばなの男の胸を足蹴に。 「翔策、だいじょぶ？」 「ああ、心配するな」 リサが残るひとりの少年に駆け寄り紐をほどくと、自由になった翔策は近くのカバンを指さした。さっきまで男たちに没収されていたものだ。 「中のアレ取ってくれないか」 ずっしり重い翔策のカバンをリサが開けると鉄製のダンベルがふたつ。 すごいと横で驚く伸一郎の胴体を翔策が脇に寄せた。 「いつもカバンに入れてるんです。ここは僕に任せてください」 外へと向かった翔策は右手のダンベルで筋肉質の男に止めを刺す。もうひとつ、左手に握ったほうは勢い余って近くにいた太い男の脳天に直撃。 「かっこいい！ 拍手拍手っ」 「サンキュ、リサ」 こうなれば四対二。太い男と筋肉質の男は敢え無く拘束された。 「ろろみをお願い！」 史枝の声を背中で受けながら、瑞貴と伸一郎は二対二の決戦に挑む。 しかし、ラスボスふたりは明らかに戦意喪失状態。ろろみの制服からも手を放している。 「うわっ、助けて！」 黒メガネの男が甲高い悲鳴で万歳するも、瑞貴は容赦なく頬に鉄拳一発。鳩尾にもう一発お見舞いすれば男は前のめりにダウンした。 ふたりの気迫に背の高い男も後ずさる。だが背後は別のビルの壁で行き止まり。伸一郎は最後のひとりを文字通り追い詰めた。 けれども、伸一郎の視線は足元へと向かった。 微妙の存在、もうひとりの自分。 意識があるのかないのか、ぐったりと仰向けになっている。 伸一郎は彼女の背中に手を入れ、抱えるように上体を起こす。タオルの猿轡を外し、両肩を手でつかんで強く揺らした。 「ろろみちゃん、大丈夫か！？」 「……う……あ……」 細く開いた目、さらにか細い声。ろろみの上体が伸一郎の腕へとくず折れる。 「わかった、今は何も言うな」 隙ありと見たか、背の高い男の足が伸一郎の頭へ飛んでくる。蹴りを入れる気だ。 しかし、今の伸一郎の直感は冴えていた。空いている側の手で男の足首をがっちり握って止める。一拍置いてから強く手を引くと、覚よりも高い男の体はバランスを崩して傾き、頭をビルの壁にしこたま打ちつけた。 その音が、試合終了のゴングになった。 |
| 表通りの歩道、通行人たちの好奇の視線の中。男女五人の高校生がひとかたまりで歩いている。部活動の大会で優勝でもしたのか、誇らしげに、何かを囲むような行進ぶりだ。 いや、囲んでいるものも人間だった。高校生とは対照的に、ばつが悪そうに背中をまるめて項垂れる四人の大人たち。全員腕は後ろにまわされ、紐で縛られている。さっきまでとは逆転状態だ。 「じゃ、被害者はあたしってことで」 「なんだよおまえ？ 偽証しろってか？」 史枝に口答えする黒メガネの男。しかしすぐ覚に小突かれた。 「あなたがた、強制わいせつ罪がなぜ親告罪なのかわかってるんですか？（注）」 「スキャンダルは断乎として阻止しないとな」 「ろ……あの子は特別だからね。あたしのようなフツーの子が身代わりになってあげなくちゃ」 「彼女、すごくショックな顔してた。萌えた……なんて言えないよ」 「あなたがたのためでもあるんですよ。アイドルの制服の転売目的が発覚したら、警察の心証、もっと悪くなりますから」 口々に言いたいことを言う史枝たち。覚は心証などという言葉を出して諭すあたり、やはり文系優等生らしい。 「でも、制服丁重に扱ったのは評価してちょうだいよお」 「あほ」 筋肉質の男に史枝の手刀が飛んだ。 その集団に、伸一郎が駆け足で近寄ってきた。ろろみとふたりだけになりたいと言い残して、史枝らより先に地下鉄駅のほうへ歩いていたはずだが、用が済んだのだろうか。 「お待たせ、みんな」 「あれ、ろろみはどした？」 「すまないフミちゃん。あの子は、帰した。……今はだれにも顔見せたくない、隠れさせて……って言ってた」 初夏の青空とはつりあわない鉛の雲が、伸一郎の顔に立ち込めていた。 「……だろうな。わかった、シンちゃん」 次に伸一郎は、イトコの少女にしっかと目を合わせて言った。 「あと、伸一郎との関係黙っててゴメンね、って」 伸一郎が合流して、凱旋行進はなおも続く。 「ああ、メール発信されてなくてよかったあ」 背の高い男から没収したケータイを、リサが自分の端末のように馴れた手つきで操作した。 「うわ、俺の戦利品が」 「黙ってろ。不利な証拠を減らしてやってんだぞ」 背の高い男に今度は瑞貴の拳骨。減らず口をたたく犯人どもめ。 「デジカメはどうする？ こっちも消去？」 翔策がカメラ背面の液晶モニターを覗きながら史枝に話を振る。 「ううん、こっちは警察に見せちゃお。あたしが暴行された証拠ってことで」 「なるほど。顔ははっきり写ってないから、言ったもの勝ちだよな」 「めっちゃ恥ずかしいから、お嫁に行けなくなっちゃうからぁ、家には内緒にしといてくださいね、絶対に。……なぁんて演技すりゃ、おまわりさんコロッと参っちゃうって」 「でもね、この写真の子、小出さんにしては小さすぎないかしら？」 「平気だよリサ。大きい男といっしょに写っているから相対的に小さく見えるだけです、って言えばいいのさ」 「確かに。さすが覚ね」 高校生たちの議論が盛り上がる。そこに、伸一郎がぽつりと水を差した。 「あんまり見ないでほしいな、その写真」 いきなり真面目になった口調、顔は俯き加減。一同の目が集まる。 伸一郎は、斜め上に顔を背けて独白を続けた。 「――恥ずかしくて悔しくて、すごく情けなくて、どうしたらいいのかわからなくて、ここにいるんだって辛くて。もう頑張れなくなっちゃいそうで。でも我慢してるんだから！」 「ご、ごめんねろろみさん、見るのやめる」 慌ててデジカメの電源を切るリサ。瑞貴たちは呆気にとられて沈黙。それを見て、当の伸一郎までが取り乱す。 「あっ、言い過ぎたごめん、そうじゃなくて、今見るのは仕方ないってわかってるけど」 「あ……、ろろみさんじゃなくって、伸一郎さんか」 今になってリサが落ち着くと、伸一郎も興奮が冷め、みんなにフォローする。 「そうそう、ろろみちゃんがさっきそう言ってたんだ。驚かせてごめん」 そうは言っても、先ほどの伸一郎はろろみの代弁者を超えた迫真に満ち満ちていたのである。ろろみの心情をわかっていたつもりのリサたちですら申し訳なさを再認識させられるほどに。犯人たちのまるまった背中も、ひときわ大きな罪悪感で震えたように見えた。 「シンちゃん、ろろみの保護者として責任感じてるんだ？」 「それだけかな小出。僕には――ろろみさんが話してるような気がしましたよ」 「私にも」 翔策に相槌を打つリサ。 伸一郎は少しドキリとした。まさか、勘付かれたか。今の時点で彼らの思うことは真相に遠く及ばないだろう。けれども不審の種を彼らに残せば、後々の面倒に成長しかねない。 されど事態は、そう恐れた方向には進まなかった。 「伸一郎さんの性格って、ろろみさんに似てますね。ろろみさんのこと、まるで自分のことのように思ってるんですね。それとも、気があるんですか？」 「違うよ違う。あくまで俺はあの子を保護してやりたいってだけ。君たち守護騎士団と同じだよ」 覚が方向性を変えてくれたおかげで、伸一郎は不審の種をうまく回収することができたのである。 そして、面倒な話題からきれいに転換してくれたのは瑞貴だった。 「ショックっていったら俺もだぜ。端末は弁償してもらえたって、番号メアド全部入れ直さないと」 瑞貴の手には、液晶が割れて基盤も折れ曲がったケータイ。 「大変ねえ。でもあたしのはもう教えてやんない。厄介事巻き込まれるの嫌だもん」 「こっちだってもう要らねえよ」 瑞貴は口でそう言いながら、指はラストにかけた番号を“手動リダイヤル”していた。番号の主の死角で。 いつの間にか増えていた野次馬たちに囲まれながら交番へと着いた伸一郎たちは、史枝への強制わいせつと器物損壊という名目で四人を警察に引き渡した。伸一郎は、偶然現場を通りかかって瑞貴たちに協力した人物、ということになっている。 アクションでは活躍の場がなかった覚が、ここにきて弁舌を発揮した。 リサのスタンガンと翔策のダンベルには過剰防衛の疑いもかけられた。しかし、強制わいせつの証拠写真を見せてあくまで正当防衛を主張する覚に警察も納得。 結局のところ、犯人たちは全員無職でバックの組織もなく凶器も持たない、ただの変質者でストーカー癖のあるオタク兼ニートの集団と判断された。大きいニュースにはならないだろうと聞かされて、伸一郎たち一同は安堵の溜め息をもらす。 入り口の階段を下りた、地下鉄駅の改札前。 守護騎士団の四人とは地上で別れたが、史枝はここまで伸一郎についてきた。 「ほんと、久しぶりだったね。すごい偶然でびっくりだよ」 「あたしも。なつかしいなー」 「フミちゃん大きくなったよね。元気でうれしいよ。叔父さん叔母さんも元気かな？」 「うん、すんごく元気。そのうち伯父さんちにあいさつに行っていい？ 今度はあたしひとりで」 「ああ。うちの両親は相変わらずだから。ユウは一人暮らしだけど、近くだから呼べば来るかもな」 史枝は気付いた。さっきは固かった伸一郎が今では気さくになっていることに。 でも彼女は、再会したばかりの緊張がほぐれてきたせいだろうと割り切った。 「ともかく、今日はフミちゃん大活躍だね。昔から御転婆だったけど」 「シンちゃんこそ、たくましくなったじゃん」 「うん、俺、あんなに運動神経あったなんて驚いた」 「驚いた？」 「あ、ああ、自分でも驚いたってこと。守るひとがいると、男って変わるんだよね。頼りがいがあるんだなって見直しちゃった」 「頼りがい？」 「あっ……って、ろろみちゃんなら言うだろうな」 「えっ？ シンちゃんとろろみって、まさかそういう関係」 「わあわあ、なんのことだか」 伸一郎は、史枝の口をふさがんばかりに両手の平を突き出した。 「そっか、あたしの考えすぎか。ただのアイドル小説家と保護者の関係だよね。好き合ってなんかないよね」 伸一郎の焦りが止まった。フミちゃん、そっちのほうを想像したか。 「フミちゃん、本当にろろみちゃんの命の恩人だよ、大感謝。明日学校でジュースおごるからさ」 学校。またもや口からろろみが出てしまった。けれども史枝の表情に変わりはないようだ。 ならば、ここではこらえるのをやめよう。我慢しなくていい場所なのだから。 「でも、明日学校行く気分かなあ……朝、ちゃんと起きられるのかなあ、あたし……」 とうとう、伸一郎の体でも目がうるんだ。衆人の通り過ぎる改札前。膝を落として、史枝の肩にしがみつく。 「怖かった、ほんとすごく怖かったよぉ……」 「シンちゃん、昔から相変わらず泣き虫じゃん。たくましいっての、取り消そっかな」 あっけらかんと言ってくれる史枝が鈍臭く、けれどもそれ故いじましく思えて、Ｐ伸一郎にはたまらなかった。 （注：正確にいいますと、刑法では、強制わいせつ罪であっても加害者がふたり以上の場合は被害者からの告訴がなくても起訴されます。今回のケースもそれに該当します。覚がそこまで知っていたかはわかりません。しかし、「ろろみが被害者であることを世間に知られたくない（そのために史枝が身代わりを買って出た）」ことを犯人に痛感させるために、「被害に遭ったこと自体を知られたくない被害者の心情に配慮する趣旨で、強制わいせつ罪は基本的には親告罪になっている」ということを覚が犯人に知らしめるのは有意義でしょう） |