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いつもと同じ朝、いつもと同じ道を通って、いつもと同じ公園の多目的トイレ。 いつもと同じように、俺――小出伸一郎、通称シン＝\―はスプリッターを頭上にかざした。 いつもの通りなら、「俺」が「あたし――微風ろろみ」と「あいつ――小出伸一郎」に分身――スプリット――する。 けれども今日の「あいつ」の姿は、いつもとずいぶん違っていた。 |
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「ちょっと……シン、痩せてない？」 それがあたしの率直な第一印象だった。 「何言ってるんだよ、俺は……はっ、声！」 痩せているどころではない。いつもより数オクターブは甲高いあいつの悲鳴。つられてあたしの声まで一段上がる。 「シン！？ まさか」 あいつの呼吸が速くなった。目の前のあたしの顔色が鏡代わりになって、自分の状態に見当がついたらしい。その見当を確かめようと、あいつは自分のスラックスに手を潜らせる。手がするりと入っていくのも体形が細くなった証拠。あいつの手はスラックスの中で二、三度往復運動して、ついには止まる。 「ないっ！」 あいつの絶叫が、あたしたちの見当の正しさを証明した。 次いであいつの手は上にまわった。自分の着ているカッターシャツの、布地が緩んでいない二ヶ所へと。 「だったらこっちは……あるっ！」 やっぱり。でも、なぜこんなことが起きたのだろう。 今になって有ることを思い出したのか、あいつは多目的トイレの壁の鏡を覗き込む。あいつどうしが大きく目を見開いて、それからしかめっ面やら大笑いやらの百面相、立体ロールシャッハテスト。結局は諦め顔で項垂れあう。 「間違いない。俺が女になっちまうなんて。これから、どうすればいいんだ……」 あいつは声を震わせながら、ふたつの膨らみを上下させてみたり何度も頬を叩いてみたり。それなのにどうしてか、あたしのほうは変に冷静だった。 「なあろろみちゃん」 血走るような目線があたしに向いた。 「キミだって元は俺だったんだろう？ 突然女になったときの心境、教えてもらえないかな」 「でも……あたしの場合とは違うじゃないの」 あたしの置かれた立場からは、そう答える気分にしかなれなかった。 「そうだシン、リンクアップしてからもう一度スプリットしてみたら元に戻れるんじゃ？」 根拠はない。閃いたことを言ってみただけ。それでも溺れるあいつには掴む藁になったらしい。 「よしそれいこう」 「あたし」と「あいつ」がそれぞれ頭上にかざしたスプリッターの光を浴びると、ふたつの影がひとつになって「俺」へとリンクアップする――いつもと同じように。 俺は異状なく元に戻れた喜びに一呼吸だけ浸ってから、もう一度スプリット。 「やっぱりないよアレっ！ どうしてだよろろみちゃん！？」 「知らない！」 あいつが頭上から両肩を揺らしてくる。怖かった。けれど、男だったあいつにやられたときよりは幾分気が楽だ。女体化しても背丈は変わってないのに。 「なんか変なところをションベン伝ってくよ。女って厄介だよなほんと」 多目的トイレの大便器に腰掛けて、ロダンの彫刻よろしく手にあごを乗せて考えるあいつ。 「ろろみちゃんも苦労したんだろ」 「まあね。慣れれば当たり前だけど」 「でも俺は慣れたくないな」 それはあたしだって同じこと。慣れたくてこうなったわけじゃない。今だってお手洗いは「俺」に戻ったときのほうが気楽だ。 だけど、今の心境のあいつにそこまでの配慮を要求するのは酷だろう。あたしは口をつぐんでおいた。 「でも俺、なんでこんなことに。ろろみちゃんは、これからどうしたらいいって思う？」 「ふたつのこと一度に訊かれても……」 あたしは「ＷＨＹ」を深く考えたくはなかった。あまりに専門的すぎて、あたしたちの知識で解明できる問題ではないのだから。それより「ＨＯＷ」のほうが重要だ。 とはいってもすべきことはひとつしか思い当たらない。 「スプリッターに原因がありそうなんだから、実験室に相談するしかないね」 「実験室って……ユウに顔合わせるのか？ これで」 「当たり前でしょ。とにかくここを出なくちゃ」 「で、出るの……」 「不審者だと思われちゃうよ。それとね、外では極力黙ってて」 あたしには見た憶えがないくらい――「俺」にもした憶えがないくらい――あいつは怯え顔でぐずっている。 そんなあいつの腕をぐいとつかんで多目的トイレから引きずり出すあたし。いつもならできなそうなことなのに、今日は思い切りが利いた。 ばつが悪そうにおどおどと歩くあいつの、手を引いて、駅まで歩いて、電車を二本乗り継いで。 あいつの顔立ちは基本的には男のときと同じだけれど、頬やまぶたが心なしかふっくら柔らかめになったように見える。少しだけ伸びて明るい色になった髪の毛は若い女性のショートカットといえるだろう。服装は男のときのそのままで、カッターシャツに軽めのサマーセーター、コットンのパンツ。それが女性の体に羽織られているものだから、シャツとセーターは胸だけピンと張っていてあとはすかすか。男物のパンツは膨らんだヒップにずり下ろされ、上の縁がそのヒップに引っかかっている。その分だけはみ出た、セーターの下のカッターシャツ。履いている物はもともと男女共用みたいなデザインの黒いスニーカーだし、身長が変わらないからか足もあまり小さくなってない。こちらには不都合はなさそうだ。 それなのに、あいつが自分にできた乳房を珍しがって揉むものだから、シャツの裾はさらに引きずり出されている。やめてほしい。 今のあいつは本来の年相応、二十五歳くらいの女性に見える。けれども身なりはあまりに見苦しかった。アイドル作家の微風ろろみとしては、こんな女性と同行するのはイメージダウン。彼女≠このままにはしておけない。だからと言ってまだ衣料品店の開く時間ではないし、ユウのところに行くほうが優先度が高いに決まってる。 せめてもの救いは、あいつがあたしの言いつけどおりに口数が控えめなこと。あたしの付き人をやってきてるから、人ごみの中で騒ぎを起こす怖さを理解してはいるのだろう。けれどもそれに服装と動作がついてきていない。 今は目をつぶっておこう。でもせめて、これくらいは言っておかないと。 「最低限、背筋は伸ばしてよ。肘は胴体から離さない、大股歩きは論外だけど内股すぎるのもダメ。あ、そうじゃなくて……」 いつの間にか、女性の先輩として、あたしも少しはコーチできる立場になっていた。 それよりか思うんだけど、なったばかりのときのあたしも周囲から見ればこんなふうにぎこちなく街を歩いていたんだろうか。 ……考えないでおこう。あたしは絶対、もっと女の仕草に適応してたはず。 あいつはあたしとは順応のしかたが違うんだ。そうに決まってる。 いつもの朝なら、スプリットした後のあたしは学校へ、あいつはバイト先の計画書店『文藝計畫』編集部へ向かうところ。ここ、あたしがアイドル作家としてよく書いている雑誌の編集部だから、あいつがバイトしてるとあたしにも好都合なのだ。 けれども今日は非常事態だからと、あたしは三件の電話で今後の行動を確定させた。まずクラスメイトで親友の小出史枝――「俺」のイトコでもある――に、「大事な用ができたから学校遅れるね」と伝えておく。それから編集部にあいつのバイト遅刻の件。あいつは女になって声が違ってしまったから、話をややこしくしないためにはあたしに頼ったほうがいい。最後は実験室のユウに。あたしたちの状況を克明に説明したら、「すぐに来てくれ待っている」と力強い返答。頼もしい声……いや、下心交じりか。 そんなこんなで、あたしとあいつは電車を乗り継いで実験室≠ﾌある大都大学へと向かった。敷地の奥の古びた建物、迷路のような廊下の果て。無限に深そうな螺旋階段を下りたところにそれはある。 正式には、大都大学工学部特殊人類工学研究室。人体を分身させるスプリットの技術を研究している部屋なもので、秘密を守るためこんな深くにあるという。 ユウ――「俺」とは双子の弟、小出優一郎――が大学院生として所属するところ。 そして、あたしがろろみとしての体を授かったところでもある。 「おはよう、ろろみちゃん。……ところでこの方、どなた？」 部屋の鉄の扉を押し開けたユウの、あたしたちを見ての第一声がこれ。 「……ひ、ひどい。俺だってのに。電話で説明しただろう」 「あっシン！ ごめん。想像したよりもずっときれいだったから」 「ちょっとユウ、あたしには？」 正直言ってムッときた。あたしが本当の兄貴だって知ってるくせに。 「ろろみちゃんもいつもかわいいよ、じゃ、早く中入って」 ユウばかりじゃない。あいさつを交わした教授たちの視線も、いつもとは大分違う。テレビ局のスタジオの照明なみに熱く感じる。 ふたりの女性が訪れて、おまけにひとりは大人の女という事態は、色気に飢えたこの実験室では皆既日食レベルのレアイベントなのだろう。 けれどもあたしとあいつが長々と付き合う義理はない。 「お世辞はいらないよ。早く俺を男に戻してくれればいいんだ」 「あたしもお世辞はノーサンキュー」 わざとぶっきら棒に、あいつの言葉に付け加えておいた。 しかしここでも、あいつは元には戻らなかった。 ２５♂←→２５♀＋１６♀。トイレでやったことを教授たちの見守る中で繰り返しても、この反応式に変わりはない。 実験室据え付けの大型スプリット装置でも同じことをしてみたけれど、あたしの目の前に現れたあいつはやはり胸だけ膨らんでいた。 あたしは教授たちに矢継ぎ早に質問を繰り出した。隣にすわったあいつは下を向いて押し黙るばかり。 スプリットの異常にはちがいないけれど、原因は不明。教授たちが言うにはそういうことだった。携帯用と大型のとどちらのスプリッターでも同じ現象が起こったから、外部環境に原因があるんじゃないかとか、太陽黒点あたりが怪しそうだとか、思い当たることはたくさんあるものの、今の段階では特定できないのだそうだ。 そのあたりの真相を究明してあいつを男に戻すために、あたしたちが使っているスプリッターを当分の間実験室に預けてほしいというのが、彼らの要望だった。 つまり、その間はリンクアップもできない。あいつどころかあたしも「俺」に戻れない。男性の小出伸一郎はどこにもいなくなるんだ。最悪、真相が究明できなければ永遠に……。 あたしにとってもオオゴトなはず。なのにあたしはあっさりと、彼らの要望を承諾してしまった。 これはあいつの問題で、他人事にすぎないんだ、っていう意識は確かにあった。あたしのときとあいつのときでは状況がだいぶ違うのだから。 あたしがスプリットの異常で女になったときには、伸一郎とは似ても似つかぬ少女の体になっていた。そのうえ伸一郎の姿をした伸一郎も同時に存在してるとなれば、あたしを本当の伸一郎だと認めてくれる人なんているはずもない。仕方なく「微風ろろみ」と名乗ったようなものだ。そのときの不本意な気分は、正直言うと今でも残っている。スプリットして「ろろみ」になることは、伸一郎として存在する権利を「あいつ」に全面譲渡するも同然なのだ。 比べてあいつの女体化は、伸一郎――本来のあいつの姿であり、あたしが「俺」のときの姿でもある――の身体をそのまま女にしたようなもの。顔立ちはシンに似た濃い目で、あたしが二十五に成長してもこうはならないだろう。背丈にしても元とほぼ変わってないから女性としては大柄なほう。体は細いから、同じ服を着ててもあの二ヶ所とヒップを除いてゆるゆるになるけれど。 だから、あいつの女体化はあたし自身の災難でもあるとわかってはいても、他人事に思えてならない実感がそんな理屈を心の隅に押しやっていた。 でも、スプリッターを預けるのを承諾したのは、女体化が他人事だと思ったからだけじゃない。女性になった「元の伸一郎」がふたりいても構わないのでは。そんな思念が、あたしの心の別の隅を靄のように漂っていたからだ。 あたし自身にも、まだ正体のわからない思念だけれど。 「シン君、気を確かに持ってくれよ」 助教授があいつに優しく声をかける。 「こうなったらシン君には女性として生活してもらうしかないな。ろろみちゃん、フォローよろしく頼むよ」 「最低、胸だけはなんとかしないとな。痛かったろ」 ユウの問いかけに、あいつは大きく頷いた。あたしは、なぜか顔を顰めた。 実験室の一角のカーテンの中、あたしの立ち会いのもとで、助教授は巻尺をあいつのトップバストに当てる。男性なのに、下着売り場の女性店員並みに手馴れていた。スプリット実験をやっていると、身体測定をする機会が多いんだろうな。 「トップは９５、アンダー７２。７０のＦカップだな。……せっかくだからウエストも測っとこう」 トップの数字は「俺」の胸囲と同じだった。シャツが胸だけ合ってるのも道理だ。 「ろろみちゃん、横の花柄の物入れからブラジャー取ってくれるかな」 普段は男性しかいないはずのこの部屋にまさか、と思った。けれど脇を見れば、花柄の紙が巻かれた数十センチ四方の木製の引き出しがある。取っ手を引いてみると、中には色とりどりのブラがしまわれていた。主要なサイズは用意されているようだ。あたしはすぐに７０Ｆのを手に取り、引き出しを閉めた。 助教授の話によると、あたしのときのようなハプニングがまた起きて不意に女性体が誕生したときのために、せめて胸だけは保護しようとブラを準備したのだという。妙なところに気を遣う実験室だ。 「あとの下着はお店で買ってくれ。もっと気に入ったブラがあったらこちらは返してくれてもいいけど、無理に返す必要はない。どうせ特売品だから」 助教授は妙に腰の座った声で言うとカーテンの向こうへ出ていった。あたしはそれを聞き流しながら、あいつにはじめてのブラを装着する。 「これ……俺がつけるんだよな」 あいつは頬を紅く染めながら、レースのついたレモンイエローのブラを凝視している。表情は大人の女性に似つかわしいくせに、それとやっていることとのギャップが大きすぎ。男から女になった先輩としてはなんとも苛つくんだけど、それはおいておく。 「そ。まず右手はこっち」 あたしはさらりと冷たく言って、あいつの両肩を紐に通す。 ブラの付け合いは、学校の体育の時間に史枝たちとよくやっていること。あれであたしはフツーの女子高生に一歩近づけたと思っている。 「これで仕上げ。じっとしててよ」 そう言いながらあたしはあいつの乳房を掌で受け……た瞬間、手が引っ込んだ。あいつの重い塊がずり落ちる。 「わっ！」 「ごめん。もう一度」 あいつには悪いことしちゃった。未体験の異物に触れたせいで、手が反射で動いてしまったのだ。テレビゲームに出てくるほうじゃない、おもちゃのスライムのような取り留めのない感触、それも生温かくて手の平に重みの余韻が残る。こんなの、あたしのとはかけ離れた代物だし、付け合ってたクラスメイトたちにもここまで大きい子はいなかったんだから。 今度はびっくりしないようにとさっきの感触を思い出しながら、あいつの乳房を掌で持ち上げてブラのＦカップへとしまいこむ。これを両胸分繰り返すと、あいつの正面姿も幾分かすっきり。 「これが俺の、Ｆカップなのか……」 あいつがブラの上から神妙気に膨らみを手で撫でる。 「どうせ実測７６公称８０、パッドで上げ底したＣカップですよ。あたしのよりずっと大きいんだから、大切にしてよ……あっ、失礼」 ホックを留めながら背後から囁いてやったけど、返事はなかった。 そのとき、なんだか周囲が明るいのに気がついた。……いつの間にやらカーテンが開いている。 「えっ、ちょっと何！？」 あたしと教授の目が合った。ほかにも数人の男が見える。実験室のスタッフたちが着替えを観察していたんだ。それも覗きどころじゃなく堂々と。 「きゃーっ、エッチ！」 「やめてください！」 あたしは断続数ヶ月の女の子生活で学習していたから条件反射で声をあげ、あいつの体を回して背中を向けさせた。けれども女性歴数時間のあいつまで悲鳴をあげるなんて。あたしにつられたのか。それとも別の理由か。 「ふたりとも元は男なんだろ、ちょっとくらい」 教授がしれっとした顔で言う。何て開き直りなんだろう。けれども声色は間違いなく動揺していた。 「元は男って……ここの機械の不具合のせいですよ！ あたしだってシンだって」 「……失礼、ろろみちゃんにシン君。ほんと悪かったよ。もうしない、ゴメン」 「約束してくれますね？」 そこまで言って教授の返事を待たずに、あたしはカーテンを引っ張った。あいつはあの一声のあとは黙ったまま、胸元で両腕を固くクロスさせている。 「シン、さっきの悲鳴よかった。これも女の武器なんだから。でももう大丈夫」 あいつの肩から力が抜けて、両腕が静かに下りる。 「……すっかり、女の自覚できたみたいね」 耳元で呟くと、あいつは畏まったように静かに俯いた。 ブラを装着した上で、あいつは元の服装に戻った。 あたしたちがカーテンから出てみると、さっきの悲鳴が効いたのか教授たちは微妙に距離を置いている。近くにいるのは覗きに加わってなかったユウだけ。 そのユウがあたしにさらりと言った。 「ろろみちゃん、今日は男言葉使わないんだね」 「あっ……そ、そうよね」 今になって気付いた。確かに使ってないことに。そして、指摘されたからといって殊更男言葉を使いたくもならない自分にも。 あたしは本来、あいつとか実験室のスタッフとかいった秘密を知っている人しかいないところでは、「俺」が使っていた男言葉で話すよう心がけていた。せめてそういうところくらいは「俺」の気分を忘れたくなかったから。 けれども今のあたしは男言葉を使ってない。意識して避けているつもりもないのに。 そうか。もしかしたら別な思念が、今のあたしを動かしているのかもしれない。 あたしはあいつとは違うんだ。女になっても男言葉が出るあいつとは違うんだ。 だけど、あいつにも思い知らせてやりたい。 「ノブコちゃん」 「な、なんだよそれ？」 あいつは怪訝な顔でこちらを向く。思ったとおりだ。 「女になったんだから、女らしい名前で呼ぼうって思って。伸一郎が女になったから伸子、安直だけどいいでしょ？」 「ふざけるな。俺は伸一郎だっての」 「あたしはろろみなんだから」 「当たり前のことだろ」 「当たり前になってよ、伸子ちゃん」 そこで会話は止まった。 されどあたしは溜飲を下げた。 自己を喪失するつらさの模造品の出がらしだけでも、あいつに味わわせてやれているんだから。 「なるほど、伸子ちゃんか。これからは俺もそう呼んでもいいのかな」 「どうぞ、あたし的にもどんどん呼んでやって」 今の会話を聞き耳にはさんだのか、ユウが声をかけてきた。 「ねえ伸子ちゃん」 「…………」 「無視かい？ 伸子ちゃんったら」 「…………」 「伸子ちゃん、ブラつけたら一段とセクシーだね」 「おい、それは当て付けか、嫌味か？」 「おっ、伸子ちゃんで返事したな」 「それとこれとは別だ。ヘンな話やめろよな」 戸惑いの表情を浮かべながらも、落ち着いた言葉のあいつ。 無邪気で無遠慮なユウのひと声が、あいつの心境に新たな反応を起こさせたのか。 「落ちついたみたいだね、伸子ちゃん」 ほとぼりがさめたと見たか、ほかの実験室スタッフもあいつに近寄ってくる。 「切れのいい顔、いけてるね。ろろみちゃんともまた違う」 「これがＦカップか。こりゃ事故じゃもったいない。新技術として確立させるか」 「ちょ、ちょっと、機械が直ったら男に戻してくださいよお」 男たちに囲まれて焦ってはいるものの、あいつは別に逃げようとはしない。 それどころか、外から眺めていたあたしまで輪の中に引きずり込まれてしまう。 「ほらほら、ろろみちゃんもいらっしゃい」 「こうやって並んでみると、ふたりともそれぞれの魅力があっていいねえ」 「Ｆカップもいいけど、かさ上げＣカップも少女らしくて清楚だもんな」 「お姉さんと妹、というよりは敏腕マネージャーと売れっ子少女アイドルって感じか」 「そりゃそのままですよ」 「元が同じシン君だったなんて、信じられないよな」 ふたり一緒にいじられて＝Aあいつは何も言えずに苦笑いしたまま。こういう場には慣れているあたしは、無言で軽くすまし顔。 けれどもひとつわかったことがある。 ユウも教授たちも、今のあいつに対して「伸一郎」が女になったという前提で接してくれているということだ。 あたしとあいつはやっぱり違う。 あたしの女体化のときは「伸一郎」とは別人扱いで、あたしの主張はまるで受け入れてもらえなかったのに。今だって「実験体６６３号」からは昇格したけれど伸一郎ではないことに変わりはない。この怖さと淋しさと屈辱は「伸子ちゃん」にはわかるまい。 あいつは伸子ちゃんになってもみんなの心の底では「伸一郎」だと思われている。けれどもあたしはあたしでいる限り徹底して「ろろみ」。 もっとも、そのおかげであたしは「アイドル作家・微風ろろみ」になってたくさんいい思いもしているけど、それとこれとはトレードオフにはできない。 あたしはあいつが……うらやましいんだ。 |
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未練たらたらなスタッフたちからあいつを引き剥がして、あたしたちは陽射しが真上から照り付ける地上へと戻った。 実験室の人たちの悪ノリぶりにはついていけないところがあるけれど、あれが彼らなりの「伸子ちゃん」への励ましなのだろう。おかげであいつは女性化したショックを乗り越えて、「伸子ちゃん」として社会生活を送ろうという気になれたのだから。 そういうことで、「伸子ちゃん」を仕事場に送って事情説明もしなくちゃと、あたしたちは電車で計画書店へと向かった。 『文藝計畫』編集部の扉を開けると、榊正世編集長がソファーでざくろジュースのラッパ飲み中。今日はひとりで早出のよう。 「遅れてすみません、小出です。朝起きてみたらこんな体になってたんで、医者に診てもらってました」 「なに？ ろろみちゃんがインターホンで言ってた逢わせたい人≠ﾁて、そういうことなんだ？」 ジュースのビンをテーブルに置き、正世さんはゆっくりとあたしたちに近寄ってくる。 「あたし、付き添ってましたから証人になります。間違いなくこの女の人は小出伸一郎さんです」 言いながら、あたしはさっき実験室からもらった診断書を提出した。あそこの教授、実は医学部の出で医師免許も持っているのである。発行元は教授個人なので、診断書から実験室の名前が割れることはない。 「ああ、なんかそれっぽいね」 落ち着き払った態度で、正世さんはあいつのパンツの付け根に手を当てる。次におしり。それから胸。これってセクハラでは？ 「うわ巨乳だあ。ＥかＦカップ？ こりゃ大変だったでしょ小出くん。いや、今は小出さんか。……女の名前はもうつけたの？」 「……ノブコです」 またまた赤面するあいつとは対照的に、正世さんはあっさりとあいつの女体化を理解してくれた。こんな編集長なら、あたしがスプリットの秘密を明かしても納得してくれるんじゃないか――明かすつもりはないけれど。 「ろろみちゃん、今は学校昼休みか。午後は出るんでしょ？」 「はい」 あたしの通う水明華高校はこの出版社からも歩いて十数分の距離だ。今の時刻なら、十分以内にここを出れば五限に間に合う。 「それで、放課後は『ｉ−ｐｒｏｊｅｃｔ』の取材だね」 「はい、史枝と一緒です」 『文藝計畫』と同じ計画書店の発行するこの女性アイドル雑誌には毎号、十代のアイドルたちが持ちまわりで自分のお友達（一般人女性に限る）を紹介するコーナーがある。いつもは普通のアイドルタレントが担当するのだけれど、今回はアイドル作家のあたしにお鉢がまわってきた。あたしが学校で女子の友人に声をかけてみたところ、マスメディアに顔出しＯＫなのは史枝だけって次第。まあ、あたしとしてはそれで望むところなんだけど。 「小出くん……じゃなくって伸子ちゃんのイトコだよね。充代から聞いてるよ」 充代さんというのは正世さんの妹で史枝やあたしのクラス担任教師。なんの因縁かそれとも偶然か、あたしは作家としても高校生としても榊姉妹の影響下に置かれているらしい。 「ええっ、史枝ちゃん来るの今日だった！？ 来週だとばっかり」 なにあいつ、ユウには逢ってるっていうのにまだ身内バレが怖いんだ？ 「もう史枝には女性化のこと連絡しちゃったじゃん。伸子ちゃん、観念したら？ あの子が理解してくれただけましだよ」 「理解が問題じゃない、女になった姿を見られるのが嫌なんだよ」 「安心しな、あの子はこの部屋には来ないから。あっちの編集部か、どこかの打ち合わせルームでしょ」 正世さんがなだめてくれた。 「でもさあろろみちゃん、伸一郎くんがいなくなって、あんたよく冷静でいられるね。わたしには他人事でもあんたには身内でしょ」 「いいじゃないですか。あたしくらいは落ち着いてなくちゃ」 「あたし」が出現して以来数ヶ月のとんでもない出来事の連続を思えば、こんなことで驚いてちゃ話にならないんだから。少なくとも外見上は。 「まあ、そんな沈着ぶりもあんたらしいって気もするけど……でも本当は淋しいんじゃないの？ 大切なひとなんじゃ？」 「あの、正世さん、なに唐突に！？」 突拍子のない会話の急展開に、あたしにはついていく術が思い浮かばなかった。 「……時間ないから、学校行ってきます！」 |
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「ろろみちゃん、明日の午後はお楽しみの三者面談ね。でも伸一郎さん……伸子さんは大変だったわねえ。面談延期したほうがいいかしら」 「大丈夫、それはないです。第一、正世さんのところにしっかり仕事に出てるんですよ」 「そうだったそうだった。姉さん理解あるから伸子さん幸せよね。ああ、伸子さんに早く逢いたいな。伸一郎さんが女になったんだから、きっと綺麗な大人の女性なんでしょうね」 「まあ、そう言う人もいますけど」 本当なら二年に進級した直後に行なわれる三者面談が、あたしは途中編入なのでこの時期になった。両親代わりの保護者としてあいつが来る予定だけど、それが図らずも「伸子ちゃん」の水明華への初顔見せになるなんて。 姉の正世さん同様、充代先生も理解力がありすぎるくらいで、事情を説明するあたしの立場は楽ではあるけど、なんか拍子抜け。会話に「伸子」の名前が出るたびに、先生のロングカールヘアーが期待ありげにブワリと振り上がる。 「先生、ろろみさん、明日の面談の話ですか？」 「わっ、瑞貴くん」 教室前の廊下で立ち話をしていたあたしたちに、同級生の男子生徒数人が割り込んできた。とりわけ瑞貴くんたち四人は微風ろろみ守護騎士団≠ﾁて名乗ってあたしのボディガードをしてくれる、頼りになる存在だ。参考までに、充代先生は守護騎士団の顧問を名乗っている。 だけど、今は彼らの相手をしている暇はない。 「そう、微風さん個人の問題。あんたらは首を突っ込むんじゃないの」 「ごめんね、みんな」 追いやられた男子たちとは入れ違いに近づいてきた史枝といっしょに、あたしは充代先生に会釈をして早足で学校を後にした。 それから小一時間後、史枝とあたしは計画書店ビル二階の喫茶室にいた。ここは外の喫茶店代わりに打ち合わせや軽いインタビューの場所になるとともに、お昼には社員食堂としても使われると聞く。 「ところで史枝ちゃんから見ると、ろろみちゃんに苦手科目ってあるように見えるかな？」 「んーっと、体育が苦手くさい。いつも直前の授業じゃ鬱っぽい顔してて」 「違うよ史枝、更衣室の雰囲気がまだちょっと慣れないだけ」 「更衣室のどこが？」 「それは……目のやりどころ……じゃなくって……みんなが堰を切ったようにおしゃべりになって、あたしにはついていけないとこ。史枝だってあそこじゃテンション高すぎじゃないの」 「なあにそれ、ろろみっておもしろーい。そこが一等楽しいところじゃん、遠慮しないでついてきなよ」 「っていっても……」 「あっ、僕もろろみちゃんのそこ面白いって思う。同じ女子高生アイドルでも作家っていうと、歌手や女優の子たちとは感性が違うのかもって」 「もうっ、話題変えましょうよ」 あたしがちょっとふくれっ面したら、目の前でフラッシュが光った。ヘンな表情撮られちゃったかも。 でもさっきの答えはあたしの本音だ。体育の授業で体を動かすのは楽しいし、特に集団創作ダンスはストーリーをつくる意欲さえもかきたててくれる。だけど、二十五男から心のスイッチが動かない更衣室モード。クラスメイトの羽目を外したはしゃぎぶりはどうしてなんだろう。普通に話しかけようとしても置いてかれるし。目のやりどころにだって困る。みんな下着はカラフルだし、伸子ちゃんほどではないけど胸が大きいし。やっと、ブラのつけあいくらいのコミュニケーションはできるようになったけど。 そんな感じで『ｉ−ｐｒｏｊｅｃｔ』のインタビュー、史枝とあたしはお揃いの制服姿で並んで座っている。ひとりでも、先輩作家さんやタレントさん相手でもインタビューの場数踏んでるあたしなのに、今日が雑誌デビューの史枝に翻弄されまくりってなんかフクザツ。テーブルの向かいには三十前後の痩せ型な編集者さんと、四十台の太ったヒゲ面のカメラマンさん。ふたりとも男だけどルックス的には「俺」と同レベルかな。 会社の中の喫茶室にしては割と広くて数十席はあるけれど、夕方近くになってもテーブルはそれなりに埋まっている。 右隣のテーブルがあたしの目にとまった。どこかの雑誌の取材なのか。男の編集者さんが向かいに座った女の人相手に質問を投げかけているらしい。 「そんなに難しく考えなくたっていいですからぁ、ぜひ。ね、伸子ちゃん」 そんな言葉が耳に入ったとたん、あたしの両目が思い切り横に寄った。 えっ。あたしの真横に座ってる女の人って……あいつ！？ 文藝計畫編集部の仕事はどうしたわけ？ 「あの、ろろみちゃん、どうかした？」 「……あっ、失礼。なんでもありません」 こっちの編集者さんにそう答えたけれど、もう手遅れだった。 「あーっ、伸子ちゃーん！」 史枝の叫ぶ声に、椅子のずれる音が重なった。 「これがそっか、思ったより超キレイじゃん、うほっ！ ……この人あたしのイトコなんです！ 偶然遭っちゃってびっくり！」 「そうそう、史枝経由であたしとも知り合いなんです」 立ち上がってあいつを指差す史枝、戸惑う両方の編集者さんに弁明するあたし。あくまであたしは「史枝経由で」にアクセントをおいて説明した。「史枝ちゃんとそのイトコ」なら一般人どうし。「微風ろろみとその付き人」ほどの厄介事にはならないだろう。 「ふ、史枝ちゃん、ろろみちゃん……嫌な予感が！」 あいつのほうは取り乱している。あたしたちに、というか史枝に「伸子ちゃん」の姿を見られたくなかったのが一目瞭然。 「だから俺、仕事場から出たくなかったんです！」 「今更遅いでしょ伸子ちゃあん。毒を食らわば皿まで、さあＯＫしちゃいなさいよぉ」 あちらの雑誌の編集者さん、またオネエ言葉を使ってる。 入れ替わった男女が会話してるみたい。 「『ＤＥＳＵＮＯ』さん、伸子ちゃんちょっと貸してくれない？ こっちの誌面に特別出演させたいんだ」 「あらおもしろそう、わたしなら構わないわよぉ」 「よし決まり！ キャッチは『取材中にハプニング！ 史枝ちゃんの美人イトコとバッタリ遭遇』ってとこかな」 「モデルの話はまた今度ね。じゃあねえ伸子ちゃぁん」 伸子ちゃん当人はそっちのけ、編集者さん両者の間で人身譲渡の取引が成立した。 あいつと話をしていたのは、計画書店の二十代女性向けファッション誌『ＤＥＳＵＮＯ』の編集者さん。文藝計畫と同じ階に編集部があって、廊下で偶然「伸子ちゃん」とすれ違ったときに目がとまって、あいつにモデルにならないかと話を持ちかけたのだそうだ。 言われてみれば、今のあいつのルックスは雑誌モデルにも向いてそう。体形をはっきり出すタイプの服になら、Ｆカップの体形も生きてくるかもしれない。 でもあいつは、とんでもないって顔で固辞していた。そりゃそうだ、いきなり女になった当日、まだ動揺も収まってないうちに、マスメディアで女の姿を晒す度胸がある人なんかいないだろう。 あたしだって。はじめて「あたし」になったときには、あんな形で大々的に顔が出るなんて想定外だったもの。一ヶ月以上たっても、編集部まで乗り込んで賞を辞退するって言ったんだし。 それは別にしても、スプリッターが直ればいずれ「伸子ちゃん」は消滅するんだから、あいつが固辞するのは当たり前だ。 「えーっもったいなーい、伸子ちゃんモデルやったらあたし応援するって」 事情を知らない史枝が、あたしにはいじましいほど無邪気に見えた。 まずはカメラマンさんが喫茶室の壁を背景に、「伸子ちゃん」と史枝とあたし三人揃いの写真を撮る。実際に記事にこの写真が使われるかどうかは、あいつの意思次第になるんだけど。 それからテーブルふたつをくっつけて、三対二で『ｉ−ｐｒｏｊｅｃｔ』のインタビューは再開した。女が三人寄れば、ふたりから見たあたしについての姦しい（？）会話が盛り上がる。 やたらと史枝につっこまれるあたしへのフォローなのか、あいつはしきりにあたしのことを「可愛い」「綺麗だ」「頭がきれる」とほめてくる。いつもだったら「シンって単純ね」と斜に構えるあたしだけど、ここでは素直に喜んでおいた。 いつしか、あたしは店内をきょろきょろと見回す男の人に気がついた。よく見たら、『文藝計畫』副編集長の原島明典さんじゃないの。 あたしは「ちょっと失礼します」と言ってから立ち上がり、大きく息を吸った。 「原島さーん、なんか用ですか？」 「あっ、微風先生。うちの小出くんが戻ってこないので探してるんですけど」 「小出さんならここですよ」 「悪いですね、成り行きでこちらの仕事につき合わせちゃって」 あたしの声に続いて、『ｉ−ｐｒｏｊｅｃｔ』のカメラマンさんが原島さんに弁明する。 「す、すみません。長くなったのに連絡入れなくて」 あいつが立ち上がって頭を下げると、こちらのテーブルに寄ってきた原島さんの挙動が一瞬止まった、ように見えた。 「あ、あなたが小出くん……じゃなくて……伸子さん、に、なったんだっけ？」 「はあ……そうなんです。お騒がせしてます」 「さっき出社したとき編集長から聞いてはいたけれど、あなたが伸子さん……すごいっ！ 綺麗ですっ！」 金銀財宝を発掘した探検家か、新彗星を発見した天文学者か。そんなシチュエーションを思わせるほどに、原島さんの目は爛々と輝いていた。あたしと編集部ではじめて出逢ったときとは、また違った反応だ。 「あなたにうちのバイトなんてさせてはおけません。ぜひ当誌でアイドル作家になられては！？」 「ちょっとちょっと原島さん！ あたしの立場は一体！？」 あたしの声に原島さんは一時的に落ち着いたものの、すぐにまたテンションを高くする。 「いえ、作家よりタレントのほうがいいですね、もっと容姿を前面に出せるように、そうモデルか女優になるべきです！ うちの会社なら『ＤＥＳＵＮＯ』あたりかな」 あのー、その雑誌、もう「伸子ちゃん」につばつけてるんだけど。 原島さんはあいつの脇に歩み寄ってきた。うわっ、手まで取って！ どぎまぎしたあいつの体の震えぶりが隣のあたしにまで伝ってくる。 「伸子ちゃんやるぅーっ！ もっといっちゃえー！」 あたしの反対側の隣では、史枝が興奮気味に拳をあげている。 「あの、原島さんってアイドル顔のほうが趣味じゃないんですか？」 「彼は惚れてしまえばなんでもＯＫになるタイプなんだよ」 あたしが正面の『ｉ−ｐｒｏｊｅｃｔ』編集者さんに尋ねたら、醒めた答えが返ってきた。 そのとき、あいつが俄かに原島さんの手を振り切った。そして、体をあたしのほうに向けてきた。 「だけど、ろろみちゃんのほうが綺麗じゃないか」 何を取り乱しているのか、あいつはあたしに抱きついてきた。 「わっ、なに、やめてよシン」 反射的にあいつを突き放す。 あいつが男のシンじゃないからか、あいつの両腕はあっさりあたしから離れた。 ……男のシンじゃないから？ そう、あたしは今、あいつのことを伸子ちゃんじゃなくてシンと呼んだ。あたしが最初に「あたし」になったときにもあいつにいきなり抱きつかれていた。そのときのトラウマ的ショックが甦って、あいつが男に思えたのだろう。 けれども、前とはあたしの気分は違う。ショックは確かにあったんだけど、一瞬だけ。今はもう落ち着いている。あたしの目の前にいるのは伸子ちゃんだ。不愉快っていうことに変わりはないんだけれど、男のあいつに迫られたときのような恐怖感は混じってない。 別の不快感。そう、あたしはあいつに苛立っているんだ。女になったって「伸子ちゃん」になったって、対外的な立場は「俺＝伸一郎」なんだから、人前ではもっとしゃんとしていてもらわないと、あたしが情けないんだから。 でも、だったら「あたし」は何なのだろう。女体化しても「小出伸一郎」と扱われるあいつと違って、徹頭徹尾「微風ろろみ」なのだと思い知らされたあたしなのに、どうして「小出伸一郎」のことを気にしてしまうんだろう？ 「……微風先生、なにか考えごと？」 「わっ！ って原島さんか」 「そっか、先生も淋しいんですね。大切なひとがいなくなったから」 「わかりますよ僕らにも、ろろみちゃんの揺れる乙女心が」 『ｉ−ｐｒｏｊｅｃｔ』のふたりまで原島さんに調子を合わせてきてる。 そんな単純な理由じゃない。あたしとあいつの関係を知らなきゃわかりやしない理由なのに――知ってたってわかるかどうか疑問だけど。 「なに言ってるんです原島さん。早く伸子ちゃん連れて編集部に戻れば？」 「はいはい。じゃあ行こうか、伸子さん」 「ブーッ、なに伸子ったらぁ、ろろみばかり構っちゃってあたしは！？」 史枝が何か愚痴っているみたいだけど、あたしにはよく聞こえなかった。 |
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スプリットのことは実験室関係者以外には秘密だし、あたしにはまだ一人暮らしできる余裕もお金もない。だから夕方あたしはあいつとリンクアップして、「俺」に戻ってひとりで帰宅する。 いつもの夕方なら、そうだった。 だけど今日はスプリッターがない。あいつは伸子ちゃんとして帰宅するしかない。 あたしはあいつの自宅に電話をかけた。こういう話しづらい事情を、伸子ちゃん当人の口から実の親に伝えさせるのは、さすがに双方に酷だと思ったから。母親が出た。念のために書いておくけれど、あいつの母親というのは本当の「俺」の母さんのこと。けれども今は他人の「微風ろろみ」と名乗り、伸一郎が女性化したことを知らせた。すると第一声こそびっくり声だった母さんが、あたしが事情を説明するにつれて次第に喜び声に変わっていくなんて。 一番酷な目に遭ったのは、あたしかも。 あいつと史枝とあたしが計画書店のビルを出ると、聞きなれた声が唐突に耳を突いた。 「まあ、伸一郎……思ったより綺麗じゃないの。本当にシンなの？」 あたしたちの退社を見計らったように、母さんが目をまるくしながら立っていたのだ。感極まった声、っていう言葉は、こんなときに使うんだろう。 「あたしが保証します。この人が伸一郎さんです」 「伯母さん、あたしたちが言うんだから間違いないよ」 「まあフミちゃん、どうもこんばんは。微風さんも、いつもお世話になってます」 あいさつを交わした後、母さんとあいつが前に、史枝とあたしが後ろになって地下鉄の駅へと歩く。 「母さんね、本当は女の子がほしかったのよ。シンとユウ、一度にふたりも男の子ができちゃったんで、三人目はあきらめたんだけど」 「ありがとう母さん。そう言ってもらえて、慰めになったよ」 ちょっと待って。「俺」は生まれて二十と五年、母さんからそんな言葉など聞いたこともない。一体どうした風の吹き回しなんだろう。あいつのほうも、本心なのかちょっとは疑ってみたらどうよ。だったらあたしから、惑わせること言ってみようかな。 「じゃあ、あたしが小出さんとこの娘になるっての、どうかな？」 「なにそれ、あなたの新作小説の設定？ いくら作家だっていっても、現実と虚構の区別はつけてくださいね」 「あははは、ろろみもあたしのイトコになりたいって？ へんなの」 相手にされなかった。ここでもあいつは伸一郎だってわかってもらえるのに、あたしは……。もういい。こうなったら、娘になった息子をいじる母親に便乗するまでよ。 階段を下りて駅に入ると、改札の向こう側に父さんが立っていた。母さんからの連絡を受けて、定時退社でここに直行してきたらしい。 「伸子、おまえの仕事帰りの姿を見るのははじめてだよな。いやあ、立派な娘に育った、父さん本当に幸せだよ」 父さんまで、あいつが生まれつきの娘であるかのようにこの状況に馴染んでいるとは驚き。まさか、ユウあたりに呼び出されて記憶の操作なんてされたんじゃあるまいな。 あたしら五人は「伸子ちゃん」の服の品定めのためターミナル駅のファッションビルへと繰り出した。最近は夜九時など遅くまで開いている店が多くてありがたい。主導権を握った母さんが何より真っ先に向かったのは、ほかならぬランジェリーショップ。 「何はともあれ、この大きな胸をきちんと収めなくちゃね」 「母さん、ぶ、ブラジャーはもう買ったから」 「おまえのセンスじゃ信用できないよ。もっと派手なの買わなくちゃ」 あいつは赤面したまま、父さんの背後に隠れている。前にあたしの下着いっしょに買いに行ったのに、それは免疫にならないのか。いや、他人事ではなく自分事と思うと照れが強くなるんだろう。 「あははは、行くよシンちゃん」 史枝とあたしは笑いながら、あいつを店内に引きずり込んだ。父さんがただひとり、男として残された。 「店員さん、この子ね、今日女になったばかりだからきっちり測ってやってください」 「何言うんだよ母さん」 「こら伸子、そういうときは『何言うの』でしょ。失礼しますね、女言葉が慣れてなくて」 実の母親にここまで無茶苦茶を言われたら、あいつがタジタジなのも当たり前。あたしだってこんな母は初めて見たんだから。 けれどもここは、みんなと一緒に今を楽しもう。伸子ちゃんを、積極的にいじるまでよ。 「おーい伸子ちゃーん、こっちのピンクのＴバックもどう？」 あたし自身にはちょっとはけないショーツを、手に高く上げてあいつに見せる。 「あら微風さん、顔に似合わずいいセンスしてるわねえ」 「もう、母さんとろろみちゃん何やってるんだ」 こうしてあたしたちは楽しくあいつをいじったんだけど、あたしの心はなぜか満たされない。 あたしだって、正世さんや原島さん、そしてあいつにいじられていた。けれど……やっぱり違う。正体を知っている肉親にいじられた経験はないんだ。 「微風さん、伸一郎がいなくなって淋しがられてるんですか？」 あたしの顔色がわかったのか、母さんがあたしに声をかけてきた。で、でも。母さんまでどうしてそう思うわけ？ 「あ、あの……」 「微風さんにはご心配いただいて恐縮です。うちの親不孝息子が娘になって、ほんとご迷惑おかけしましたけど、これからも見捨てないでよろしくお願いしますね」 「は、はい。こちらこそよろしく」 スカートにカットソー、靴にストッキングを二点ずつ買ったら、さすがのファッションビルも閉店の時間。あいつは伸一郎の家に帰るけど、あたしに帰る家はない。原稿の仕事はある。でも頼みのユウは、スプリッタートラブルの調査で実験室に泊まり込み。 こういうとき、あたしは「俺」の家の近所のファミレスでＰＤＡのキーボードたたきながら夜を明かす。店長はあたしとも「俺」とも知り合いだから文句は言われない。 あいつは伸一郎の家に帰る。あたしに帰る家はない。 あたしはあいつがうらやましい。だからあいつをいじって、うらやましさを紛らわせた。 でも、紛らわせたのは、うらやましさだけ？ 「大切な人がいなくなって、淋しいんでは？」 正世さんも原島さんも母さんもそんなことを言う。 どうなんだろう。このファミレスでひとりっきりのほうがずっと淋しいに決まってるじゃないか。 次々と池の中からあぶくが浮かんできて、落ち着かない心の水面。 |
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次の日は土曜日だった。あいつは出勤しなくていいけれど、あたしは学校に行かなきゃいけない日。 いつもなら「俺」はあたしのために平日と同じに起きて、朝のお散歩という口実で公園のトイレに向かって、あたしは学校へ、あいつは帰宅して二度寝。けれども今日のあいつは両親とお買い物をして、それからあたしの三者面談で学校に来る予定。そういうことで、あたしは少し空いた電車に四人で揺られていた。 あたしを見下ろすあいつの服装は、はじめての本格的な女性服だ。昨日買った小さめフリルのカットソーに、つる草模様のプリーツスカート。外出するには問題のない服装だが、よそ行き服とはいい難い。 「やっぱりスカートっていうのは、ほらなんていうのか、スースーするよな」 そんなふうに訴えてくるあいつが、なんか初々しく見えた。あたしにはもう今更になってしまった感覚なんだもの。膝どうしをぴったりくっつけた両脚や、すらっと伸びた背筋も良かった。あいつの心境から昨日のうろたえが消えて、いい意味の緊張感だけが残っている、ってことなんだろう。 乗り換えのターミナル駅であたしが三人と別れたとき、あいつは両親の間に挟まるように歩いて、二十年若い女の子のような好奇心の瞳を輝かせていた。……ように、あたしには見えたんだ。 授業はお昼で終わったけれど、今日はあたしは三者面談で残っている。 予定の時刻になっても「伸子ちゃん」が来校しないので、あたしは来客用玄関に足を向け、入り口でしばらく外を見ていると……来た！ 親に買ってもらった、リクルートを思わせる女性用スーツだ。まあ、あたしには想定内の無難な姿かな。 けれどもあいつが近づくにつれて、想定外部分がどんどん増えてゆく。 あいつの顔は昨日とは全く違っていた。見事なお化粧が施されていたんだ。 カメラ映りをよくするための仕事メイクでもなくて、放課後の女子高生のオシャレでもない、大人の女の人が日常しなくてはいけないお化粧。品のよいきめ細かで白い肌、ぱっちり開いた目、細くしかし優しい眉、上品でいて最低限の主張は伴っている唇。 これが……あいつ！？ 「お待たせ、ろろみちゃん。さあ行こう」 あたしでもない、「俺」でもない、変わり果てたシン、いや伸子ちゃんが目の前にいた。 化粧の腕はデパートの相談販売員のものなんだろうけど、あいつ自身にそれを十二分に受け入れる力がなければここまで綺麗には見えない。 あいつの身振りも完璧に大人の女性のものだった。歩くときの脚のそろえ具合、腰の揺れ具合、どれも今朝までとは見違えるほど自然に見えた。 いったいいつの間に身につけたのだろう？ この数時間にどんな心境の変化があったんだろう？ 好奇心の瞳の賜物なのか？ あいつが「伸子ちゃん」の体をすっかり我が物にしているなんて。 「きゃーっ伸子ちゃん超ステキ！ 昨日もよかったけど今日はセクシーじゃん」 廊下を歩くあたしたちに、下校していたはずの史枝が声をかけてきた。 「史枝、もう帰ったんじゃないの？」 「だーって、伸子ちゃんに逢いたかったんだもーん」 けれどもあいつはそんな黄色い声には動じずにさらりと言った。 「あのね史枝ちゃん、リボンが緩んでるよ」 「えっ……ああ、直さなきゃ。まだ校内だもんね」 「伸子ちゃん、なかなか几帳面だね」 あたしが少し皮肉っぽく言っても、あいつは冷静なままだった。 「ろろみちゃんも、ほら、上履きのかかとつぶれてる」 言われて気がついた。あたしの身だしなみが乱れてたってのも不覚なのに、それをあいつに指摘されるなんて。 あいつはあたしと違う、よくできた大人の女性になっていた。 ……なぜ違ってしまったのか。考えると混乱しちゃいそうだから考えないでおく。 それより今は、目の前の三者面談に全力投球しなくては。 あたしはあいつとは違うんだ。あたしはそう、自分に言い聞かせてたはずなのに。 どうして戸惑うんだろう、あたしは。あいつの完璧な女性化ぶりに。 「ろろみさんの成績は問題ないですね。三教科でも五教科でも中間試験でトップの二十人に入ってますから。編入試験の調子どおりってところですか。出席日数も今のところ大丈夫です。欠席なし遅刻一回早退二回。一回の遅刻は昨日の伸子さんのハプニングですから仕方ないですね」 二年一組の教室。ふたつ並んだ机と椅子にあたしとあいつが着席して、向かいに充代先生。先生は用意した書類に目を通しながら滔々と話していく。 「私も初めは心配したんですよ、アイドル作家活動と両立できるかって」 「ろろみちゃん速筆だから。どこの原稿も締め切り破ったことないんですよ」 「まあ、それは立派ですね。さすがね、ろろみさん」 あたしに話が振られたので、言いたいことを言ってみる。 「でもおかげで飛び込みの仕事も入ってきちゃうんですよ。さあお昼ごはんだって思ったところに呼び出しかかって、文藝計畫の対談仕事だっていうんで指定場所までタクシー直行で。正世さんったらもう、あれがあたしの初早退ですよ」 「それだけ姉さんに頼りにされてるんだから、結構って思いなさい」 まあ、確かにそうだ。あたしは素直に頷いておいた。 まだ三年次のコースの最終決定には早いけれど、充代先生は進路についても尋ねてきた。 「ろろみさんは将来どんな職業につきたいのかな……って、もうプロの小説家か。でも、これだけで一生食べていくのは大変な仕事よね。それでも小説家を続けていきたいのかな」 「……実を言うと、あまりよく考えてないんです」 それが正直な表向きの≠たしの考えだった。 「あたし」というか「俺」の本音では、「アイドル作家・微風ろろみ」なんて所詮は刹那的な存在にすぎないと思っていた。腰掛けとして作家業と高校生を楽しみながら文芸の体験学習をして、アイドル作家ブームが終わったらろろみ≠廃業して男の伸一郎一本に戻り、計画書店でアルバイト続けながらアマチュアとして小説を書きつつ、ゆっくり定職を探していけばいい。そんな人生設計を抱いていた。さすがにこれを表に出すわけにはいかないけれど。 「へえ、なんかわかるなその気持ち」 先生は怒るかと思ったけれど、意外にも理解を示してくれた。 「だってろろみさん、いきなり賞とってあれよあれよで作家デビューしちゃってうちの学校に編入されて、まだ二ヶ月くらいでしょう。将来のこと落ち着いて考えられないのも当然よね。じゃあさ、ろろみさんが将来小説家を辞めて別な仕事につくとしたら、どんな職業がいいかな。例えば……タレントになるとかね」 「…………」 あたしは、答えあぐねていた。 「伸子さんは、どう思われます」 「私は……ろろみちゃんにはこれからも作家を続けてほしいって思ってます」 あいつはきっぱりとした口調で言い切った。意外だった。 「でも正直言うと、今のろろみちゃんはまだまだアイドル作家。作品の力量では大人の作家たちにかなわないと思います。でも、彼女にはまわりのものを吸収しようっていう意欲が人一倍ありますから、発展の可能性は十二分にあると思います。私の希望を言わせてもらえば、ろろみちゃんには大学の文学部に進んできちんと文学を勉強してもらいたいです。それも、外国文学も学ぶことで視野を広げてほしいですね。国文よりも英文か仏文か独文で。そうすれば、必ずや大人の作家に脱皮できると思います」 いちいちもっともだった。あたしに、まわりのものを吸収しようって意欲があるのは当然だ。作家デビューしたってだけでなく、いきなり女になった上に高校生活までやり直す羽目になったんだから。それにしても、あいつがあたしの将来についてこんなにしっかりとした考えを持っているなんて。あたしにはますます想定外だった。 けれども考えてみよう。もしもスプリッターがこのまま戻ってこなかったとしたら、あたしは一生微風ろろみなのだ。そしてあいつは一生「伸子ちゃん」。 今は、そういう最悪な状況を前提に将来を考えなければいけないんだ。そう思うと、あいつの意見には説得力が増してくる。 あいつは見かけだけじゃなく、内面の考え方もすっかり大人になっているんだ。 「ろろみさんはどう思う？ 今の伸子さんの話」 「あたしも……賛成です。大学に行きたいし、文学の勉強もしたいです。いい作品をもっとたくさん書いて、多くの人たちに読んでもらいたいです」 もともと「俺」は大学では工学部だったから、ろろみとして文学部に行けば文系理系両方の専門を持つことになる。そうした幅広い知識も、創作の場では有利だ。仮に作家をあきらめてほかの職業につくにしろ、大学で学んだ教養は必ずやどこかで役に立つはず。 「わかりました。じゃあ今のところは、微風ろろみさんは大学文学部志望ということにしときますね」 先生は机の上の書類をまとめてそろえながら、面談のお開きを告げた。 「それじゃ最後に、いつものアレをやりますね」 言いながら先生は、さっとあたしの背後にまわってきた。 「ろろみちゃん、かぁいいかぁいい〜っ」 熱いものが背中から全身へと走り、あたしの頬に充代先生の頬が擦り付けられてくる。先生のこのスキンシップ、毎日やられているから慣れたとはいえ、やっぱり息苦しくてそして小恥ずかしい。 「そして伸子ちゃんもーっ。伸子ちゃん、かぁいいよ〜」 「うあっ」 この教室でずっと落ち着き払っていたあいつが、とうとう沈着のバランスを崩した。そしてあたしは胸をなで下ろした。 あいつにまでスキンシップしてくるなんて。先生は子供っぽいところもあるけれど、同時に計り知れないくらいの強さも持っているんだ。 「今日はおつかれさまでした。伸子さん、すみませんけどちょっと外の廊下にいていただけますか。ろろみさんとふたりだけで話したいので。数分で終わりますから」 「あっ、はい。じゃ、ろろみちゃん待ってるね」 どうしたんだろう。先生があたしひとりを教室に残すなんて、何のつもりなのか。 「微風さん。先生びっくりすること言うかもしれないけれど、小さい声でお願い」 「は、はい」 微風さん。ふたりっきりだからか呼び方が変わって、それがあたしに新たな緊張を促す。 微風すら吹かぬこの静まり返った教室で、響くものは先生のささやき声。そしてあたしの胸の鼓動だけ。 「さっきはあなたの進路について訊いたけど、あなたは、伸子さんの将来について何か考えてるかな？」 「伸子ちゃんの？」 「あの人、あなたの親代わりだっていうのに生活も不安定で大変でしょう。その上あんな変身までしちゃって、大丈夫なのかなって思ったの」 「そう、ですね……」 そうか、このままスプリッターが戻ってこなかったらどうなるか。あたしだけじゃない。伸子ちゃんの人生も考えてやらないといけないのか。 「実は伸子ちゃん、昨日の夕方計画書店で雑誌のモデルにスカウトされたんですよ。『ＤＥＳＵＮＯ』です」 「まあ、それはすごい。今のあの人なら、先生もいけるんじゃないかと思うな」 「でも、さすがに動揺して断っちゃっいました」 「そりゃもったいない。でもきっと、まだ脈あるって思う。姉さんの力だって借りられると思うし。とにかく、わたしはあの人にも自己表現の可能性を追求してもらいたいの」 充代先生の熱い本気が、あたしにも伝ってきた。 あいつも二十五歳独身女なんだ。できることはできるうちにやっておかなくちゃ。 「微風さんも、伸子ちゃんのことを応援してあげてね」 「はい」 「それとね……あなた、彼氏っているのかな？」 「な……あっ……」 今さっき言われたことが守れなくなりそうで、あたしは口を強く両手で押さえた。 「水明華は社会的トラブルにならない限り男女交際はアリアリだから。教師と元教え子の夫婦は知ってるだけで三組いるよ。すごいのはね、わたしが担任した去年の卒業生にいたな、同級生どうしで夫婦になったってのが。男の十八の誕生日待って結婚したのよ、双方の両親の承諾はもらってね。卒業式の日に教室でカムアウトしてさ、クラスは大騒ぎだったわもう」 「ちょっと先生、何言ってるんですか？」 「あっごめん、別に微風さんに今すぐ結婚しろって言ってるんじゃないから。ただ、先生が心の準備をしたかっただけ」 あたしだけじゃなくて、充代先生のほうも気持ちが落ち着いていないらしい。 「微風さん、伸一郎さんが変身して伸子ちゃんになっちゃって、本当は淋しいんじゃないの？」 まただ。どうしてみんなこの質問してくるんだろう。困っちゃう。 「…………」 「じゃあ質問変えるね。あなたはさっきのと同じ質問、昨日からだれかにされてない？」 「……されてます」 「だれに？」 「正世さん。あと、副編集長の原島さんと、シンのお母さんにも」 「……わかりました。もう帰っていいわ、微風さん。変な質問してごめんなさいね、おつかれさま」 あたしが扉を開いて外に出てみると、いつの間にか廊下は賑やかになっていた。 「あっ、ろろみお疲れっ」 「ろろみさんお疲れ様です」 史枝だけでなく、瑞貴くんたち「守護騎士団」の四人までもが集結していた。 けれど、あたしの出待ちだけが目的ではなかったんだ。 「ほら見てくださいよ、ろろみさんも。彼女綺麗でしょう」と覚くん。 「ショップ街歩いてても、ここまでの人はそういませんよ」と翔策くん。 彼らの奥で揺れ動く白い円錐形に、あたしは息を呑んだ。 「うそ……すごい似合ってる」 さっきのスーツとお化粧にも驚いたけど、あいつがそれ以上の感嘆をもたらすなんて。 あたしの両手は通学バッグを重力に委ね、斜め上向きに開いた口の正面へとコマ送りで動いていった。 「でしょ。私もさっき、ろろみさんと同じ反応したんですよ」 数個のケータイカメラのシャッターを次々と切りながら、リサがあたしの耳元で囁いた。 あいつは純白のロリ服を着せられて、いや極自然体に着こなして、澄まし顔で廊下に佇んでいたのである。 その隣に立つのは、思ったとおり鈴木博子先輩。実はこの先輩、「絵崎たると」のペンネームであたしと同業やってるんだけど、ロリ服やゴスロリの愛好者としても知られているんだから。 「あっ先輩。これはどういうことですか」 「微風さん、ほら似合ってるでしょう。放課後の集まりで友人に着せるために用意した服なんですけど、伸一郎さんにここまで合うなんて驚きです。ここが学校でなければ、わたくしも同じブランドの黒で合わせたんですけど」 「ええ、すごく似合ってますね。……じゃなくて、シンに勝手なことしないで下さいよ。シン、これくらいにして、そろそろ行きましょ」 「…………」 だれかから借りた手鏡を前に、あいつは自分の世界に浸り切っていた。それだけでなく、周囲の人間までをも世界に巻き込んでいた。 「伸子さん、スタイルいいからウエイトレスもいいよな」「客室乗務員が似合いそうですね」「戦隊もののピンクやってほしいです」「今度はお姫様ドレス着てほしいな」。それぞれ瑞貴くん、覚くん、翔策くん、リサの声。 「あれ、みんなどうしたの？ 用がないなら早く下校なさい……すっごーい、伸子ちゃん！ もう、先生のお嫁さんにしちゃうんだからぁ！」 教室から出てきた充代先生までもが、あいつに駆け寄って胴体を抱き締める。あいつは「あぁん……」と色っぽい声で先生に応え、周囲の六人が固唾を呑みながらそれに見入る。 あたしだけが少し引いていた。いや、引かなきゃだめなんだ、流されまいと、心の川縁で必死に杭を掴んでいた。 あたしがろろみのまま大人になるのなら、いずれ身につけておくべき振舞い。それを今、あいつが天衣無縫にこなしている。 女になってまる一日しかたってないあいつが、あたしの先輩になるなんて。 あたしはあいつとは違う。あたしはそう、自分に言い聞かせてたはずなのに。 どうして戸惑うんだろう、あたしは。あいつの完璧な女性化ぶりに。 そうか、あたしの本音は、あいつに「俺」と同じであってほしかったんだ。 伸一郎の名残を留めていてほしかったんだ。 「伸子ちゃん」の見事な精神の女性化ぶりは、「俺」が今のあいつと同じ立場に立たされたらとったであろう態度、のはず。 あたしは、そうなんだと思い込むことで、自分の精神を落ち着けようと努めていた。 でも、本当にそうなのか。あいつがあたしと違う独自の進化を遂げつつある可能性。捨てられないとわかってはいるけれど面と向かいたくもない代物が、確かに首をもたげつつある。 「あいつと同じ」なのは嫌だ。でも、「あいつと違う」のは怖い。怖くなってきた。 でも……その怖さを受け入れなくちゃ、って思念もあたしのどこかに微かにあって。 なによ、女になれたからってあんなにはしゃいじゃって。 お母さんや原島さんや博子先輩や充代先生にいじられてそんなにうれしいわけ！？ あたしだって、そこまでされてない。 したことだってないし、できないし。 伸子ちゃんの……伸一郎の……バカ。 ……あれっ、どうしたんだろ、あたし。キャラ違っちゃってる。 |
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やっとこちらの世界に帰ってきたあいつをスーツに着替えさせて、あたしたちは学校を後にした。 今日のこの後は、あたしにはとりあえずの予定はない。あいつには「俺」のガールフレンド、早瀬久美子とのデートが入っていた。 「シン、どうする？ 久美子は女体化知ってるんだろ。今日はキャンセルか？」 「いや、久美子にもこの姿見てもらおう。戻れるかわからないんだから、今の自分を見せたほうが有意義だろ。新しい服とかも選べるし、モデルの件も相談できるし」 あいつは一応男言葉に戻っているけれど、仕草は女のまま。 「そうそう、ろろみちゃんにも同席してもらうよ。もう連絡も済ませてあるから」 あいつがちょっと有頂天気味に感じられたけど、今のあたしに止める力はなかった。 参考までに、あたしはすでにろろみとして久美子と何度か顔を合わせている。 「…………」 喫茶店のいちばん奥のテーブル。あいつとあたしがひととおりの事情を説明する間、久美子は俯いたままだった。 「どうした。俺のどこか、不満か？」 「ねえシン……どっちつかずな言葉遣い、やめてくれる？」 「じゃあ、女言葉で通そうか？」 「逆よ」 「え？」 「どうして、男のシンに戻ったときのことをもっと考えないの？ どうやれば戻れるのかって、もっと真剣に考えないの？ 伸子ちゃんだとか、女になれて楽しいとかってはしゃいでる場合じゃないでしょ」 やっと持ち上がった久美子の顔は、「俺」にはめったに見せないものだった。 「ろろみちゃん、あなたももっと真剣に考えてよ。シンがいなくて、あなたも淋しいんでしょ」 久美子までも。なんでもう、みんな同じこと考えるんだろう。 けれど彼女に言われたからには、あたしは素直に淋しさの原因が考察できた。正世さんたちにはわからないことが久美子にはわかっているからだ。久美子にとって、あたしがライバルでない以上。 そう。確かにあたしは淋しい顔をしているんだ。けれど、わからないんだ。本来の自分である「俺」がいなくて淋しいのか、他人としての「あいつ」がいないから淋しいのか。仮に「あいつ」だとした場合、淋しい理由はどこにあるのか。 「シン……伸一郎に戻ってよ……」 久美子の表情が崩れていった。ポーチからハンカチを取り出す手も間に合わない。 あいつも自分のハンカチ――まだ男物だった――を出して、久美子の頬に当てる。 あたしもハンカチを出した。けれどもその行き先は、久美子じゃなくてあたし自身の顔だった。 久美子のおかげで、あたしも目醒めたんだ。 いつまでも続くかのように思えた、重苦しい沈黙。 それを破ったのは、あいつのケータイの着メロだった。 「ユウか。……えっ、原因わかったか。じゃ、元に戻れるんだな、おおっ！」 服装に似合わない男言葉だけど、力強い。あいつの顔が輝くと、久美子の顔も晴れ上がった。 「すまない久美子。俺、病院行って元に戻ってくる」 「ううん、おめでとう。早く行ってきてよ」 あいつにワンテンポ遅れてあたしも席を立とうとした。しかし久美子が呼び止める。 「ろろみちゃん、どうしてまた淋しそうな顔するの？」 「えっ？ あたし、そんな顔だったっけ？」 久美子が言うには、あいつが元に戻れると聞いたときのあたしはうれしい表情だったのに、直後にまた淋しい顔になったとのこと。どうして、あたしの表情が？ 「……あっ、ごめんね。早くシンのところ行ってあげて」 実験室に向かう電車の中、うきうき顔のシンを尻目にあたしは考える。 シンが元に戻れると聞いて、どうしてあたしは淋しがるのか。 「伸子ちゃん」とのお別れが残念なのか。それは確かにある。たった二日間だったとはいえ、「伸子ちゃん」と過ごした時は楽しかった。 けれども、戻れる確約ができた今となってはやっぱり、伸子ちゃんは仮の姿にすぎないって思う。 今となっては？ じゃあ、あたしもやっぱり仮の姿ってこと？ あたしの将来。伸子ちゃんと充代先生が真剣に考えてくれたのに、それも徒労に終わるわけ？ そんなことない、あたしはこれからもあたしとして存在していくんだから。 でもそれは、「俺」の考えとは違うんじゃなかった？ 電車が目的駅に着いたおかげで、あたしの思考の糸はゴルディオンの結び目にならずに済んだ。 |
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教授の話によると、スプリッターの動作異常の直接の原因は、太陽黒点と地磁気の異常が重なってパーツが破損したことらしい。そのパーツを交換することで、スプリッターは正常に作動した。 ともかく、あたしは「俺」に戻ることができた。 「俺」がスプリットすれば、女のあたしと、男の「シン＝あいつ」が出現するようになった。 「俺」の両親も、正世さんや原島さんや史枝たちも初めは落胆していたけれど、すぐにいつも通りに戻った。 あいつのモデルの話も、当然ながら立ち消えになった。『ｉ−ｐｒｏｊｅｃｔ』用に撮った「伸子ちゃん」絡みの写真も、あいつ当人は「恥ずかしいから嫌だ」って掲載を固辞している。あたしは、残念だけど構わないって思う。だって、カメラマンさんから三枚、写真を焼き増ししてもらってるんだから。史枝用、あたし用、そして、あいつ用。 ケータイカメラで撮ったロリ服伸子ちゃんのほうも、あいつは門外不出を要求しているけど、これだって同じことだ。 そして、シンがいなくなって伸子ちゃんになってあたしが淋しいのかどうかの件も……うやむやに終わった。 いつもと同じ朝。自室でアラームより前に目覚めて、俺はクローゼットを開く。 男物の中にひとつだけぶら下がった、女物のスーツ一式。ろろみ用にしては寸法が大きい、もう着る主は現れないだろう服だ。 俺に、伸一郎に、女装願望なんて前にも後にもあったことがない。けれど、着てみた。そして深く溜め息をついてみた。 俺はなんてバカなことをしているんだろう。あいつもこんな気分だったんだろうか。 でもな、俺はこうなんだ。 引き出しからろろみ用の通学カバンを取り出した。中にはスプリッターが入っている。 俺はニヤリ笑った。 「あいつ」が苦笑いした。 「あたし」も笑った。 いつもと同じ多目的トイレ。いつもと同じようにスプリットしたあいつが、いつも通りにあたしの斜め上に立っていた。 あたしはこの思いを作品に昇華させるために、これからも書き続けていきたい。 （了） |