※本作品はゲーム『トゥルー・ラブストーリー』のキャラクターと設定を使用しております。
『トゥルー・ラブストーリー』シリーズについてはこちらを参照ください。
０ 今こそチャンスよ！ ▼
ひと気の少ない、放課後の特別教室棟。
どうしたのかしら？ 朝山くんが、音楽室に入ってく。
でも、きっとすぐに出てくるはずだわ。
待ちぶせよう。音楽部の練習なんて、遅れて行ったっていい。
朝山くんが出てきた！ わたしは、とっさに曲がり角に隠れる。
カツン、コツン、カツン……。
足音が、確実に大きくなる。
さあ、綾音、今こそチャンスよ！
「うわっ！」
間違いない、朝山くんだ！
「きゃっ！」
彼の胸にわたしの肩がぶつかった。
えっ？ すごい衝撃！？
はねとばされる！
ドッサァァァーーーーンッ！！！！！！！
トランス・ラブ
ストーリー
〜第１回「０日目 木曜日」〜
作：こうけい
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▲ １ どうして男子制服なんて ▼
……あれ？ どうしたのかしら、わたし。
そうだわ、音楽室から出たところの廊下の曲がり角で、肩から朝山くんにぶつかったんだ。
そしたら、なんだか思いがけない衝撃を受けて気が遠くなっちゃって……。
視界が白くなってきた。
わたしは重いまぶたをゆっくりと開いていった。
「おにいちゃん、気がついた？」
髪を三つ編みにした女子生徒が、心配そうな表情でわたしの顔をのぞきこんでいた。
テニスウェアを着てる。ということは、テニス部の子なんだ。
「おにいちゃん？」
この子、見覚えあるわ。確か１年生で……。
「ねえ、お兄ちゃんたら！ 大丈夫？」
「あっ、はい！……あはぁ？」
彼女の大声で、とっさに返事をした。
とたんに、喉のあたりにすごい違和感が走る。
自分の声じゃない！？
すごく太くて低くて、まるで男の子の声みたい。
ぶつかったときに、喉の調子が悪くなったのかしら？
「あはぁっ！ げほっ、げほっ！ あはぁ！？」
わたしは何度もせきばらいをする。でも、声は直らない。
「どうしたのお兄ちゃん、今度は風邪！？」
えっ？ この子、わたしのことをお兄ちゃんって呼んでるみたい。
……思い出した！ この子、朝山くんの妹さんだ！ 先週テニスコートで見たことあるわ。
あたりを見回す。だんだんと、思考の糸がつながってきた。
ここは保健室の長いすだ。
カーテンの向こうのベッドにもだれかが横になってる。たぶん朝山くんだろう。わたしとぶつかって倒れたんだ。
だれが保健室まで運んでくれたのかはわからないけれど。
「あなた、朝山くんの妹さんね、どうもありがとう。あはぁっ！」
わたしの声は低いままだ。
「……お兄ちゃん、やっぱり変よ。頭も打ったんじゃない？」
「お兄ちゃんって、どういうこと？……わたし、女子なんだけど」
「なーにバカなこと言ってるの？ 自分のからだ、よく見なさいよ！」
妹さんは顔をしかめながら、わたしの体にかかっていた白いシーツをめくりあげた。
「ええっ！？」
シーツの下から、紫のネクタイと紺色のスラックスが現れた。
これを身につけてるの、わたし！？
着たおぼえはないけど、よく目にしている服装だわ！
あわてて長いすから立ち上がる。
白いワイシャツのボタンを確かめる。男物だ！
そしてネクタイには大きな校章マーク。
床にそろえてあった上履きも、男子用の青いものだった。
青空高校の男子制服だ！
「わたし、どうして男子制服なんて着せられてるの！？」
「お兄ちゃん！ いったいいつまでとぼけてるの！」
「だからわたし、あなたのお兄ちゃんじゃないの！ 桂木綾音なのよ！」
その名前を出したとたん、今まで怒り顔だった妹さんの表情が変わった。
「い、いっけない！ 桂木先輩のほう、忘れてた！」
桂木、先輩！？ わたしはここにいるんだけど……。ベッドにいるの、朝山くんじゃないの？
すると、カーテンのむこうでベッドの主がごそごそと動きはじめた。
「あれ……？ ここ、保健室？」
うそ、わたしの声でしゃべってる！
「なんだ、みさき、そこにいるのか？ ……けほっ！ 声が変だな」
「桂木先輩、大丈夫ですか？」
妹さんがカーテンを開ける。
ベッドの主が、わたしの視界に飛び込んできた。
えっ、まさか！？
ベッドから起き上がろうとしてるのは、わたしだ！ 綾音だわ！
わたしがそう口に出そうとした瞬間、目の前のわたしが先に絶叫した。
「うわあっ、お、俺がいる〜〜っっっ！！！？」
▲ ２ こんな表情あったかしら？ ▼
ふたり並んで長いすに座る、わたしと“わたし”。
ようやく少しは落ち着いてきたけど、まだ体のあちこちが気になる。
「わたし、２年Ａ組の桂木綾音（かつらぎ あやね）」
わたし、つまり朝山くんの体になったわたしが名乗った。
「俺は２年Ｃ組の朝山輝一（あさやま てるかず）だよ」
これはわたしの体になった朝山くんの言葉だ。
「朝山くんね、知ってたわよ」
「そ、そうか。俺のこと知ってたんだ」
「それほどのことでも……」
自分どうしが相手の会話なんて、なんとも気まずい。
勝手な言葉をしゃべる鏡を相手に話してるみたいな感じ。
「だけど、いったいどうなってるんだ？
廊下の角を曲がろうとしたら、突然だれかが飛び出してきて、ぶつかって弾き飛ばされて、気がついたらこの姿だよ」
「わたしだってびっくりよ。ぶつかった衝撃が気絶するほど大きいなんて」
「でも、いつもまじめな桂木さんが、急に飛び出してくるなんてどういうことだい？」
「そ、それはただ、朝山くんに……」
わたしは口をつぐんでしまった。
いまさら、本当のことなんて言える状況じゃないもの。
「ふーん……」
朝山くんが、わたしの顔で、わたしに冷ややかな目を向ける。
だけど、わたしの顔にこんな表情あったかしら？ 他人ににらまれるよりも怖い。
怖さのあまり、思わず声を荒立てた。
「だったら朝山くんだって、どうして音楽室なんて入ろうとしたの？ 朝山くん音楽部じゃないでしょう？」
「い、いいじゃないか！ 用があったんだよ！」
「わたしの声でわめかないで！」
「桂木さんこそ、俺の顔で怒鳴るなよ！ なんだかみっともないんだよ！」
もう、どうしたらいいの！？ どうしたら、元に戻れるの！？
「まあまあ、けんかはやめてよね、ふたりとも」
「あっ、みさきか……」
朝山くんの妹、朝山みさきちゃんがわたしたちの間に入る。
「これからの生活のことを考えると、とにかく今は協力しなくっちゃ」
あっ、確かにそうだ。家族、クラス、部活……。
入れ替わった直後は何が起きたかわからなかったけど、今になってやっと実感がわいてきた。
これからのことを、考えなくちゃいけないんだって。
入れ替わったわたしたちがけんかしてたら、お互いの生活がますますめちゃくちゃになる。
「ご、ごめんね、朝山くん」
「はいはい、こちらこそ悪かったよ」
みさきちゃんが、腕を組みながら事情を整理する。
「今わかることは、お兄ちゃんと桂木先輩の体が入れ替わっちゃったってことよね」
「みさきちゃん、信じてくれるの？」
「だって、ふたりでいっしょになってわたしをからかう理由なんて、考えられないでしょ」
まあ、それもそうよね。
「ふたりとも本当に困ってるみたいだから、わたしだけはふたりの味方になってあげたいのよ」
「ありがとう、みさきちゃん」
「でも最後に、ひとつだけ確かめさせてね。
お兄ちゃん、部屋の押入れの右隅に、エッチな本を隠してない？」
とたんに、わたしの姿の朝山くんが真っ赤になった。
「あっ、やっぱり気づいてたんだな、みさき！ でもな、もうそこにはないぞ！
おまえに見つかったかと思って、洋服ダンスの上から３段目に移し変えておいたのさ！」
「間違いないわね、こっちがお兄ちゃんだ」
みさきちゃんは、ポンと手をたたく。
でも、朝山くんがそんなことやってたなんて、ちょっとびっくり。
男の子だったら当然なのかなあ。
▲ ３ 演劇部のほうがよかったんじゃ？ ▼
そのとき、保健室の扉がガラッと開いた。
「ごめんなさいね、保健の先生がお出かけだっていうのになかなか来られなくて。
わたしも手が離せない用があったのよ」
三上冴子（みかみ さえこ）先生は、朝山くんの２年Ｃ組の担任。いつも微笑みを絶やさない、若い女性の先生だ。これでも一児の母だって聞いてるな。
「ところで朝山くん」
「はいっ！」
先生がわたしに目を向けて言うので、思わず返事をしてしまった。
でも、これで正しいのか。
「あなた、桂木さんになにをしたの？」
そうか、女子と男子がこういうことになったとき、まず疑われるのは男子のほうなんだ。
これからは慎重にならなくっちゃ……。
「なにって、音楽室近くの廊下で、わたしの肩が朝山くんの胸にぶつかって」
「えっ？ 朝山くんはあなたでしょう。それに背がぜんぜん違うわよ」
「あっそれは……」
もともとわたしは身長１６３ｃｍ、朝山くんは１７０ｃｍくらいかな。でも、今は逆転してたんだ！
「……そのときは、わたしが桂木綾音だったんだけど、ぶつかって気絶して気がついたら入れ替わっちゃって、朝山くんになっちゃったんです」
「あらあ？ 朝山くん、桂木さんになりきっちゃってるのね。もしかしたら、彼女のこと好きだったのぉ？」
えっ、そんな意味じゃ……。先生、ちょっととぼけてない？
「わわっ！ 違いますよ、先生！！」
横から大慌てで、わたしの体の朝山くんがツッコミを入れる。
「桂木さんも演技がうまいわね。音楽部より、演劇部のほうがよかったんじゃ？」
「えっ？ そうじゃなくてぇっ！ 俺たちぶつかったら体が入れ替わっちゃったんです」
「桂木さんが俺言葉なんてめずらしいわね。なんの劇をやるのかなあ？ 先生も見たいわね」
三上先生はますますとぼけまくる。ああ、どうすれば。
「あのね先生、桂木先輩とお兄ちゃんは、真剣に話してるんですよ」
みさきちゃんが助け舟を出してくれた。
「そうよね朝山さん。演技だって、真剣にやらないとダメよね」
あーあ、ここまできたらもうお手上げだ。
「とにかく、朝山くんも桂木さんも、放課後はうろうろしてないで早く家に帰りなさい。いつも注意してるでしょう？」
やっと先生の態度が落ち着く。
「いいつけを守らないから、妹さんに迷惑をかけるんですよ」
先生は、笑った目のままでわたしをにらみつけた。
「はい。気をつけます」
「はいはい」
朝山くんもわたしの声で返事をする。
「桂木さん、“はい”は一回で十分ですよ」
「……はい」
はいを二回重ねるのは、朝山くんの口癖なのかな？
「それじゃ朝山さん、戸締りはよろしくたのむわね」
「はい、先生」
先生は保健室を出ていった。結局、頼りにされてるのは、みさきちゃんだけだったみたい。
「先生はまるで信じてくれなかったわね……。
まさか、ああとぼけられるとは思わなかったけど」
「桂木さん、三上先生はよくああなるんだ。気にしすぎるなよ」
「先生だけじゃないわ、ふつうのひとは信じないし、動揺してとぼけたくもなるわよ。
こういうのを信じちゃうのって、わたしと弥生くらいだと思うわ」
弥生ってだれだろう？ みさきちゃんの知り合いかしら？
「ともかく、桂木先輩もお兄ちゃんも、今日は自分の体の家に帰るのよ」
えっ、そうか！ わたし、朝山くんの家に帰らないといけないんだった。
「そのうちきっと元に戻れるから。トラブルは最小限にしなくちゃね」
「あーあ、参ったよな。桂木さんにはみさきがついてるからいいけど、俺はひとりで帰るのかよ」
「お兄ちゃんはわたしのお兄ちゃんなんだから、大丈夫よ！」
▲ ４ この体で歩くのは意外と楽だよな ▼
わたしたち３人は並んで廊下を歩いている。
「漫画や映画で見なれたシーンだけどさ、あそこにアレがないってのはやっぱりショックだったよな。
だけど、手や足に毛が生えてないってのは、うれしかったぜ」
わたしの体の朝山くん、さっきから自分の体、つまり桂木綾音の体や服をべたべた触っている。
戸惑う気持ちはわかるけど……。だれも見えないといっても、声が廊下に響いているのよ。
「朝山くん、ちょっと恥ずかしいんだけど」
「でも桂木さんだって、俺の男の体に興味あるんだろ？」
「ええっ！？ それは！」
わたしはあわてて、ワイシャツとスラックスの間から手をひっこめた。
朝山くんって、意外なところで鋭いのね。
「それに俺、スカートなんて生まれて初めてだぜ。ほんと、下半身が頼りないよな、これ」
朝山くん、わたしの制服のジャンパースカートの裾をひらひらさせる。
「桂木さんならパンツルックは経験あるだろ？ なんだか不公平だよ」
「お兄ちゃん、文句言わないの！」
テニスウェアから制服に着替えたみさきちゃんが、横から釘をさす。
「あと、この体で歩くのは意外と楽だよな」
「えっ、それってどういう意味なの？」
「胸があまり重くなかったからさ」
「し、失礼ね！」
わたしはつい高い声を出す。
バストが８１ｃｍだって、別にいいじゃないの。
「朝山くん、覚えててほしいんだけど、女の子は胸について言われるとすごく気になるのよ」
「そうよ、わたしからも忠告しとくわ、お兄ちゃん」
「はいはい、わかりました」
▲ ５ バスの扉の向こうへと ▼
学校から十数分歩くと、にぎやかな八台駅前に出る。
朝山くんの大きな通学靴をはいて歩くのもすぐ慣れた。
「ほら、ここのバス停よ」
朝山くんは待ち客の列に並ぶ。わたしとみさきちゃんは脇に立つ。
もともと、わたしはバス通学だけど、朝山くん兄妹は徒歩だった。
わたしの体の朝山くんをひとりでわたしの家に帰らせるのはちょっと不安だけど、仕方ないのよね。
柱の時刻表と、わたしの腕にはまった腕時計を見比べる。
わあ、朝山くんの腕時計、デジタルアナログ両方表示なのね。
「次のは数分で来るみたいね」
「参ったなあ。道順のメモだけで帰れるのかよ、俺」
「大丈夫。バス停から一本道だし、家の形だってわかりやすいはずだから」
「でも、『地図を読めない女』って本にもあったろ？ 俺、女になってるとなんだか自信がないんだ」
「わたしは朝山くんの体になっても『話を聞いてる』わよ。安心して。
それに、いざとなったら、朝山くんの家に電話かければいいでしょう。わたしが出るから」
「あっ、そうだよな！ ありがとう、桂木さん」
「それにしても桂木さん、カバンが重いぜ。まじめなんだなあ」
「あははは、朝山くんのカバン、お弁当箱がカラカラ音たててるわよ。食いしん坊ね」
すると、朝山くんの表情がにわかに暗くなった。
「……俺、桂木さんの胃袋だと、こんなに飯食えないんだろうな」
そうか。男の子って、たくさん食べることにこだわるものね。
これからわたしたち、どれだけの不都合と戸惑いを経験するんだろう？
そう思うと、わたしまで心細くなってきた。
とうとうバスが来た。
朝山くんが、待ち客の列といっしょに遠ざかっていく。
「あと、朝は７時３５分発の八台駅前行きバスに乗ってね。４５分発だと、駅前で渋滞すると遅刻するかもしれないから。
そうだ、熱帯魚に餌をやるの忘れないで。
髪の毛のセットのしかたも、このメモに書いてあるからよく読んでね」
ついつい不安になって、口数が多くなるわたし。
「はいはい、わかってますよ」
朝山くんの返事の声が、ちょっと震える。
次の瞬間、わたしの体の朝山くんの顔から、光る筋が一本、また一本……。
「朝山くん、スカートのポケット！」
とっさに叫ぶわたし。
言われた朝山くんは歩きつつ、ジャンパースカートのポケットからわたしのタオル地のハンカチを取り出す。
それを顔に当てた桂木綾音の姿が、バスの扉の向こうへと吸い込まれていった。
さよなら、わたし。
煙を残して、バスは出ていく。
わたしの目まで、なんだかうるんできた。
「ほら桂木先輩、男の子は泣かない！」
「ち、違うわみさきちゃん、……排気ガスが目に入ったの！」
▲ ６ 社会の窓が開いてますよ ▼
「さあ、着いたわよ」
みさきちゃんに連れられて、わたしは朝山くんの家にやってきた。
「ただいまぁ。お兄ちゃんもいっしょよ」
「おじゃ……た、ただいま」
ここは自分の家なんだ。そう言い聞かせながら、はじめての家の玄関をくぐる。
「ふうっ……」
大きなカバンを床に置いて、ため息をつく。
ついにわたしは、朝山くんの部屋に入ったんだ。そして今は、自分の部屋でもある。
あっさりとした机といす。右手に本だなと洋服ダンス。左手に押入れ。
きれいに整頓されてる、というか、部屋のおもてに出てるものがほとんどない。
もっと雑然とした部屋を想像してたけど、あっさり志向なのかもね。
洋服ダンスの上から３段目を開けてみる。
わたしだって好奇心くらいあるもの。
あっ、Ｔシャツやポロシャツの間から、本がちらりと。朝山くんの言ったとおりだ！
その本を取り出してみる。
……なあんだ、ふつうの週刊誌じゃないの。ちょっと女の人のグラビアがあるだけの。
こんなのエッチな本のうちに入らないでしょ、バスや電車の中で大人のひとがふつうに読んでるわよ。
……もしかしたら朝山くんの家って、これくらいの本にもうるさいのかしら？
それとも、彼がこういう本に慣れてないだけ？
ま、いっか。
次は、私服に着替えないと。……今度こそ、ドキドキしてくる。
ハンガーにかかっていたチノパンを、外して床に置いた。男の子の夏服って、ほんとシンプルよね。
制服の紫色のネクタイを外す。右合わせのボタンには慣れないけど、ひとつずつ外していく。
ワイシャツを脱ぐと、Ｔシャツ一丁の上半身。上はこのままでいいか。
そしていよいよベルトを緩めて、スラックスに手をかける。
……ダメだわ。まだわたしの目には、男の子の下着の免疫なんてない！
目をつむったまま前のホックを外して、一気にスラックスをずり下げる。
手探りで、さっきのチノパンを持つ。ファスナーのついた裂け目のあるほうが正面。スカートとは違う。
わたしは手と脚の感覚だけを頼りに、二本の筒のそれぞれに両脚をゆっくりと入れていく。
「輝一、みさき、夕ごはんよー！」
「はーい！」
朝山くんのお母さんの呼ぶ声に返事をしてから、わたしはチノパンを腰の上まで上げきった。
「桂木先輩、社会の窓が開いてますよ」
部屋を出たところで、みさきちゃんから開口一句。でも、“社会の窓”ってなんのことなの？
「そっか、男きょうだいがいないとわからなくてもしかたないね。
社会の窓っていうのは、パンツの前のファスナーのこと。
男の子はね、ここが開いてるとすごくみっともないのよ」
そうか、そんな呼び方があるんだ。
わたしは、まじまじと社会の窓を見る。
きゃっ！ 中から白いブリーフが姿をのぞかせてるじゃない！
わたしはあわてて、ファスナーを持ち上げた。
「そうそう、よくできました、桂木先輩」
こうして、わたしの男子として初めての着替えは、なんとか終わった。
▲ ７ 突拍子すぎて、なんだかわからない！
「今日はね、お父さんから大切なお話があるの」
わたしとみさきちゃんがテーブルの前に座ると、朝山くんのお母さんが神妙に口を開いた。
なんの話しだろう？ みさきちゃんと、顔を見合わせる。
すると、横に立っていた朝山くんのお父さんが、真剣な面持ちでいすに腰かけた。そしてテーブルに身を乗り出すようにして話しはじめた。
「輝一、みさき、心して聞いてくれ。
お父さんは、会社の都合で転勤することになったんだ。時期は１ヶ月後、７月末の予定だ。
赴任先はここから何百キロも離れたところだから、到底ここからは通えない」
えっ？ 今、なんていったの？ てんきん？
「でも、単身赴任ってこともできるよね？」
「これっ、お父さんの話は最後まで聞きなさい」
気がはやるみさきちゃんを、お母さんが制止した。
「そう、お父さんが単身赴任するということも考えた。
でもな、あっちとこっちで二重生活をすることになるから、お金がうんとかかるんだよ。
なのに会社の経費削減で、単身赴任手当てが出なくなった。
それだったら、一家みんなで引っ越したほうが、ずっと得なんだよ」
なんなの？ 引っ越しって？ あまりに突拍子すぎて、なんだかわからない！
「それにだな、向こうのほうがずっと土地が安いんだ。
おまけに、ちょうどこの家も古くなってきた。
だから、この家を取り壊して土地を売って、向こうで新しい家を買う。
お父さんとお母さんで、そうすることに決めたんだ」
「それじゃあ、学校は？ 青空高校は？」
みさきちゃんの声が高くなった。
「うん、輝一とみさきには悪いが、一学期いっぱいで転校してもらうことになるな」
「そんなあ、わたし入学したばかりなのにぃ！？」
ええっ！ てんこおぉ！？
ようやくわたしは、今話されていることの意味を理解した。
あと１ヶ月のうちに元に戻らないと、わたしは転校しちゃって、朝山くんとははなればなれになっちゃうんだ！
そしたら、一生ずっと入れ替わったままかも！？
ひどい！ あんまりよ！ わたしたち、いったい、どうしたらいいのよ！？
「どうした、輝一」
「気分でも悪いの？」
わたしは答えなかった。
テーブルに突っ伏したわたしの両目から、液体がとめどなくあふれ出る。
わたしは気がすむまで、そのままでいたかった。
（第２回に続く）
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