絵梨のピアス
作：こうけい
【第一段階】
１：木曜日
神社の前を、３人の女子高生が話に花を咲かせながら歩いておりました。
「あっ、夏祭りの看板が出てる」
「そっか、今度の日曜か。気づかなかったね」
「絵梨、千晶、今年も３人いっしょに行こうよ！」
「うん。あたしの新しい浴衣、見せてあげる」
「いいなあ絵梨。でもあたし、いっぱい食べるぞ！」
「玲香はいつもそれなんだから」
小島絵梨、植野千晶、長谷川玲香は、１年４組の同級生で親友同士。
もうすぐ、年に一度の神社の夏祭りがやってくるのです。
「そうそう思い出した。今年は御牛様の御供えがあるんだよ」
「うんうん。前はあたしたち幼稚園だったよね」
「１０年前だもん」
「あのときもあたしたち３人いっしょに行ったよね。背がちっちゃくてよく見えなかったけど」
「今回こそは、しっかり目に焼きつけておきたいよね」
「絵梨、大丈夫？あのとき泣き出しちゃったでしょ、牛さんが死んじゃったって」
「もう、千晶ったらよく覚えてるなあ。でも、今は平気。あの牛は神様のところに行ったんだって、ママから聞いたから」
「そっか。じゃ、３人でおもいっきり盛り上がろうね」
“御供え”とは、１０年に一度行われる、神に雌牛を遣わせる儀式のことです。そのためにこの神社では、境内で雌牛を飼っているのでした。そして夏祭りの起源も、この御供えの儀式なのです。
御供えの儀式は、夏祭りの最後を飾る、この街最大のイベントです。“御牛様”と呼ばれる雌牛が灼熱した鉄板の上で絶命するとき、祭りで高まった観衆たちの熱狂は頂点に達するのです。
神社から少し離れたところで、絵梨は道端に光るものを見つけました。
「あれ、なんだろう…指輪かな？」
絵梨が拾ったものは、直径２センチ、幅２ミリほどの金属の輪でした。しかし、輪の一部が欠けておりました。
「指輪じゃないね。ピアスみたい」
「ほんとだ絵梨」
千晶と玲香が相づちを打ちます。
「どうしようか、これ」
「どうせ落とし主なんてわからないでしょ。捨てちゃいなよ」
「でも、きれいだよ。あたし、これ身につけてたいな、ピアスにしてさ」
「やめなよ絵梨。いまどきピアスなんてはやらないよ」
「どうしてもピアスしたいなら、ちゃんとしたものを買えば？」
「いいじゃない。ただなんだから。どこに付けようかな？ひとつしかないから耳はだめだし…鼻にしよ」
「鼻ピアス！？恥ずかしいな」
「いいでしょ、あたしの勝手なんだから」
絵梨が自分の鼻に輪を取りつけると、輪はピッタリとはまりました。
「うん、なかなかいけてる！」
自分の手鏡を見て、絵梨はガッツポーズをとります。
「絵梨ってセンス悪いのが欠点だよね…」
千晶と玲香は顔を見合わせるのでした。
「ただいまーっ」
絵梨が自宅のドアを開けると、母親の佳枝が顔をしかめました。
「…いやだ絵梨、どうしたのその鼻？」
「あたしね、鼻ピアスすることにしたの。鼻に穴開けたわけじゃないから、安心だよ」
「でもね、みっともなくないの？」
「あたしの勝手でしょ！さあごはんにして！」
「ねえあなた、絵梨になんか言ってやってくださいよ」
「ん？なんのことだい？」
佳枝が夫の勇作に声をかけると、勇作は面倒くさそうにテレビから視線を離しました。
「絵梨の鼻ピアスのことですよ。みっともないったらありゃしない」
「そうか？俺はいいと思うぞ。若いうちくらいいろんなファッションに挑戦しないとな」
「あなたまでのんきな…、絵梨が不良の道に走ったらどうするんですか」
「佳枝、ピアスくらいで不良だなんて時代が古いぞ。な、絵梨」
「そうだよママ！ありがとうパパ」
「もう…しかたないわね」
「ところで、佳枝も絵梨も知ってるか？神社の雌牛が行方不明になったんだってな」
「まあ…もうすぐ夏祭りの御供えなのに？」
「ああ。牛はあの１頭しかいなかったから、御供えができないって町内は大騒ぎだぞ」
「えーっ！じゃあ、儀式はどうなっちゃうの？中止？」
「そうなるな。でも、祭りは予定通りやるそうだぞ」
「絵梨は千晶ちゃんたちと行くの？」
「うん、千晶と玲香と３人で！」
「悪い男には注意しろよ」
「そんなピアスしてるんなら、なおさら気をつけたほうがいいわよ」
「はーい」
「俺は射的に燃えるぞ！佳枝、絵梨、今年も賞品楽しみにな」
「わーっパパ、人形いっぱいとってね」
２：金曜日
「おっはよー！」
「おはよー絵梨、あれ、それは？」
クラスメイトが、絵梨の鼻を指さしました。
「よくぞ尋ねてくれました。ピアスだよぉ、鼻ピアス。かっこいいでしょ？」
絵梨は自慢気にピアスを見せびらかします。
「なにそれ〜？趣味悪〜い」
「あれ？そうかなあ」
「いまどき鼻ピアスなんて遅れてるよ」
ほかのクラスメイトの反応も同じでした。
「絵梨、ほらね。昨日あたしたちが言ったとおりでしょ」
千晶と玲香が諭すように声をかけました。
（みんな…あたしの趣味わかってくれないんだなあ…）
この日のホームルームは、抜き打ちの服装検査でした。
「小島、なんだそのピアスは」
絵梨のピアスは、真っ先に先生のやり玉に上がりました。
「えーっ、ダメなんですか？」
「華美な装飾品は禁止って校則で決まってるだろ。今すぐ外せ」
「…はい。…あれ…痛、いたたた…」
皮膚に食い込んでしまったのでしょうか、絵梨がどうやってもピアスは外れませんでした。
（あれ…痛、いたたた。食い込んじゃってるのかな…）
「すみません先生、ちょっと外せなくなっちゃって…」
「しかたない、そのままつけてろ。帰ったら医者に行くんだぞ」
（あーラッキー。せっかくのピアスなのに、簡単に外しちゃたまらないわよ。本当に外したくなったら医者に行くんだから）
絵梨は胸をなでおろしながら鼻のピアスに指をやりました。
（あれ…心なしか、大きくなってるんじゃ？）
手鏡で確かめてみると、昨日と変わっているようないないような大きさです。
（うーん…気のせいなのかな…）
「ねえねえ、御供えになる御牛様が行方不明って、知ってた？」
休み時間、千晶が絵梨と玲香に話しかけてきました。
「知ってたよ。ママから聞いた」
「あたしは初耳。どうなっちゃうんだろう、御供え」
「御供えが中止だったら夏祭りもつまらないよねえ！」
「なんとか御牛様が無事見つかるといいね」
３：土曜日
「おっはよー！」
「おはよー絵梨、あれ、それは？」
クラスメイトが、今日も絵梨の鼻を指さしました。
「昨日も言ったでしょ、ピアスだよ」
「ピアスはわかるよ。昨日と変えてない？」
「えーっ、変えてないよ」
「うそー！ずいぶん大きくなってるよ」
手鏡で見ると、ピアスの直径は５〜６センチほどです。昨日と比べても、明らかに大きくなっていました。
（なんだか気味悪くなってきちゃったな…外しちゃおうか。でも、昨日は外れなかったもんな…）
「ねえ千晶。このピアスの外し方知らない？」
「医者に行けば？」
「あっ、今日臨時休業って、貼り紙出てたよ」
横から玲香が補足を入れました。
「そうなの？明日は日曜で休みだし…月曜に外してもらうか」
「うん。そうしなよ、絵梨」
「そうそう。御牛様、まだ行方不明だよね」
千晶が話題を切り替えてきました。
「絵梨と玲香は、あの御牛様の名前って知ってる？」
「知らない」
ふたりは口をそろえて答えました。
「御牛様はね、“まほらま”って名前なんだってさ。ママから聞いた」
「そうなんだ。でさ、どういう意味なの？」
「古語で、“すぐれたよい所”って意味。まほろばとも同じ意味ね」
「わあすごい、千晶よく知ってるね」
「何言ってんの玲香、古文で習ったじゃないの」
「そういえば、あたしたち、こないだ御牛様に餌あげたことあったよね」
今度は絵梨が話をそらしました。
「うんうん。高校に合格したお礼参りで、３人で行ったときだよね。神主さんが特別に牛小屋を見せてくれてさ、楽しかった」
「思い出した！神主さん、まほらま号って呼んでた」
「まほらま、あたしたちが鼻輪を撫でたら喜んでくれてたね」
「ほんと、いい牛だったよ。御供えまでに見つかってほしいよね…」
４：日曜日
（息苦しいな…あと一日の辛抱か…）
絵梨の鼻ピアスは、外れないまま昨日よりも大きく、そして太くなっておりました。
直径７〜８センチ、太さ５ミリくらい。鼻で息をするのも難しいほどです。
昼過ぎ、新しい浴衣を着せてもらった絵梨は、待ち合わせ場所の交差点へと向かいました。
「千晶、玲香、待った？」
「ううん、今きたところ。それにしてもなによ絵梨、そのピアスまるで牛みたい」
「牛？それだけは言わないでよ」
「わかったわかった」
「でもさぁ、せっかくのおニューな浴衣に鼻ピアスは似合わないんじゃ？」
「仕方ないでしょ、あと一日のガマンよ」
そんなこんなで３人は夏祭りを楽しみ、あとは夕方のクライマックス、御牛様の御供えを残すだけになりました。
すでに、本殿の前にはやぐらが据えつけられております。５メートル四方はあるその床は鉄板でできており、その下には薪が山のようにくべられておりました。
御牛様はやぐらの脇に取り付けられた斜面を上ってやぐらの床に乗せられます。そして、薪の炎や煙と共に神のもとへ遣わされるのです。
「あれえ？御供えってやるんだ？」
「何言ってるの絵梨、あたりまえでしょ？」
「でもさ玲香、御牛様のまほらまって見つかったの？」
「さっきだれかが見つかったって言ってたよ」
「そっかー、よかったね」
「みなさま、まもなく当神社の神主の手によりまして、御牛様の、まほらま号が登場されます！」
神官がマイクで告げますと、境内を埋め尽くした観衆の拍手が巻き起こりました。白装束に身を固めた神主が本殿からやぐらの前に現われ、観衆の前で右手を挙げました。
するとどうしたことでしょう、なんと観衆が絵梨の前でふたつに割れ、通路ができたのです。
（えっ？どうしてあたしの前だけ？）
戸惑う絵梨の目の前へ、神主がゆっくりと近づいてきました。そして、絵梨にこう告げたのです。
「まほらま号、探しましたぞ」
（神主さん？なに？どういうこと！？……うっ、痛い！）
そのとき、絵梨の鼻に一層大きな衝撃が走りました。
【第二段階】
神主の言葉と共に、絵梨の鼻ピアスがさらに大きくなったのです。頭は重みでズンと垂れ下がり、鼻の穴は今にも裂けそうです。
（な、何よこれ！？）
絵梨は痛みを我慢しながら、鼻ピアスを恐る恐る持ち上げて観察してみました。
それは直径１０センチ、太さは１０ミリほどの黒光りする鉄に変わっており、表面には難しい漢字や記号が刻まれておりました。
（どうなってるの…？これじゃ鼻ピアスじゃない、牛の鼻輪だ……）
そのとき神主が、絵梨の鼻輪をむんずと手でつかみます。
「い、痛い！気をつけてよ！」
「…間違いありませぬ。この鼻輪こそ、神のもとへと遣わされる御牛様、まほらま号のものでございます」
絵梨の抗議には耳も貸さず、神主は確信した声で言いました。
「痛い！なんであたしが！人違い、ううん牛違いよ！」
「また逃げるおつもりですか、まほらま号」
神主は太さ３〜４センチはありそうな綱を取り出し、鼻輪に通そうとしました。
「痛い、痛い！」
鼻に走る激痛に絵梨は激しく抵抗しますが、ふたりの若い神官が背後から絵梨の体を拘束しました。少女の体ではとてもはねのけられません。
「あたし人間よ！小島絵梨よ！まほらま号じゃない！千晶！玲香！ママ！パパ！だれか！助けて！痛い！痛いよー！」
必死に泣き叫ぶ絵梨。しかし、観衆はだれひとりとして反応しません。隣の千晶と玲香も、少し離れたところにいる勇作と佳枝も、絵梨を助けようとはしませんでした。
「まほらま号、準備ができました。さあ、参りましょう」
神主は、絵梨の鼻輪に結びつけられた太い綱をグイと引っ張りました。後ろの若い神官が絵梨の体を放します。
「うわっ！」
いきなり強い力で鼻輪を引っ張られたので、絵梨は前につんのめりました。
そのとき、絵梨の肉体に思いがけない異変が始まったのです。
つんのめった両足が一度目に着地しました。
その瞬間、両足に履いていた草履は消え、裸足の爪先が地に着いたのです。
「痛っ！」
（草履が脱げちゃった！）
絵梨はそう思いました。しかし実際は、草履は脱げたのではなく姿を消したのでした。
両足が二度目に着地しました。
その瞬間、両足の爪先が唐突に太く、黒く変化しました。それも、ふたつに割れて。
「うっ！」
（爪先が、変だ！）
爪先が固くなったためか、絵梨の悲鳴もいくぶん小さくなりました。
両足が三度目に着地しました。
その瞬間、両脚全体、そして下半身までもが肥大化しました。頑丈になった両足は黒い毛で覆われており、浴衣の下からも黒毛が覗いておりました。
「あっ！」
（お腹が、お腹が痛い！）
浴衣の背中が幾分盛り上がっています。どうやらしっぽが形成されてきたようです。
両足が四度目に着地しました。
その瞬間、体の肥大化は上半身にまで及びました。両腕は浴衣が半袖に見えるくらいに伸び、そして黒い毛が生えてきます。
「ひっ！」
（胸が苦しい！張り裂けそう！）
着地の衝撃がまた大きくなりました。増えた体重を脚が支えきれないのです。
「まほらま号、ご観念くだされ」
神主がさらに強く綱を引きますと、絵梨の体は上半身から前へと飛び出しました。
（こ、転んじゃう！）
【第三段階】
ズゥゥンン…。大きな土煙があがります。
とっさに両手をついたので、絵梨は胴体を打たずにすみました。
（立ち上がらないと…）
絵梨は曲げたひざを起こそうとして、ひざに力を入れようとしました。でも、なんだか変なのです。ひざはすでにピンと張っていたのですから。
（…ひざ、曲がってない！？）
今度は、両手と背中に力を入れて立ち上がろうとします。それも無理でした。
（ひざが曲がらないで両手ついてて…どうなってるの…？）
そのとき絵梨は、自分の視界が変わっていることに気づきました。首を動かしてもいないのに、斜め後ろにいるはずの若い神官たちまで見えるのです。
（景色が変…魚眼レンズで見たように広いし、モノクロだ…）
絵梨は理科の授業で習ったことを思い出しました。馬や牛のような草食動物は外敵をすばやく見つけられるように視野が広いということと、色の区別がつかないということを。
（も…もしかしたら…）
絵梨が足下を見ると、地についた両手は、ふたつに割れた固いひづめになっておりました。それも、両足と同じように黒い毛で覆われていたのです。
（ひっ！牛の脚！）
思わず絵梨は右手を持ち上げようとしました。すると、目の前の牛の右前脚が地面を離れました。
次に左手を前に動かそうとすると、牛の左前脚が地面を擦って前に進みました。
（やっぱりこの脚は、あたしの脚なんだ…。と、いうことは…）
自分の状況を整理していくうちに、体が震えてきました。
（今のあたしは………まさか…牛なの！？そんな！）
絵梨は悲鳴をあげようとしました。しかし、息を吐き出しながら口を動かそうとしても言葉は出てきません。代わりに、振え始めた喉と口からは信じられないような音が飛び出しました。
「……ンンンンモォォォォォォォーーーーーーーーッッッッ！」
自分の発したその音で、絵梨は今の自分の姿を十分に確信しました。
（牛！牛！牛！牛！いやあぁーっ！）
そう、両手を地についた瞬間に、絵梨は黒毛の雌牛、まほらま号になってしまったのです。
いつの間にか、着ていた衣服は完全に消滅しており、絵梨の首にも手綱がかけられておりました。
（いったい…なんであたしが牛に！？どうしたら人間に戻れるの？）
動揺した絵梨はしきりに体を震わせ、足踏みを繰り返しました。
四本の脚が地面を擦って砂埃を立てます。けれども首と鼻輪を綱でつながれているので、思うように動くことはできません。
「ムォ、グォ、グヴモォーーー！」
焦って叫ぼうとしても、牛の唸り声にしかなりませんでした。
絵梨は、斜め後ろに千晶と玲香を見つけました。
ふたりはじっと絵梨を見つめておりました。しかしそれは、変わってしまった親友に驚いている目ではありません。もうすぐ御供えにされる御牛様への期待の視線でした。
ほかの観衆たちにも、人間が突然牛に変わったことに驚く者はいません。
（千晶…玲香…。だれも、あたしが牛になったのにどうして驚いてくれないの？）
「グムォー！ブブモォォーッ！」
激しい動転と、束縛への苛立ちから、絵梨は鼻息を荒げました。
すると神主は、絵梨の鼻輪を綱で軽く２回引いたのです。
「これまほらま号、落ち着きなされ」
絵梨の鼻から全身へ新たな刺激が走ります。
（はっ！！）
絵梨は驚きました。意識してないのに、反射的に自分の全身の動きがピタリと止まったからです。
鼻輪を軽く２回引くのは、この神社では“止まれ”の合図でした。神社の飼い牛としてしつけられた、まほらま号の体の記憶が条件反射を起こしたのです。
（……あたし、なに興奮しちゃってたんだろう…）
続いて絵梨の心も静まってきました。まほらま号の記憶と本能に同化されはじめているのです。
「まほらま号、あなたの晴れ舞台が待っているのですよ」
絵梨に満面の笑顔を向けながら、神主は彼女の鼻輪を何度も撫でました。すると絵梨は自然と安らぎの息をもらしはじめます。
「ムォー……ムォー……」
人間だったときと違って、鼻輪を触られても痛くなく、くすぐったいような心地よい刺激が体全体へと伝わっていくのです。
（あれ…鼻輪を撫でられると、気分が落ち着いてくる…。あたし、まるで生まれたときから牛だったみたい…）
絵梨はなんにも考えたくなくなるような、不思議な気分になりました。そう、人間としての意識が薄らいでいくとでもいうのでしょうか。
「さあまほらま号、参りましょう」
神主は絵梨の鼻輪を綱で強く１回引きました。“行け”の合図が鼻に伝わると、絵梨の脚は自然と前へ動きはじめます。
「御牛様！」「御牛様ーっ！」
絵梨が神主に引かれて本殿の前に姿を現すと、観衆の拍手は一際大きくなりました。
大歓声が耳に入ると、絵梨の人間としての意識が再び強くなりました。
（あたしがまほらま号…御牛様…じゃあ、もうすぐ御供えに……死ぬんだ！！）
命の危険を悟ったとき、絵梨の心は牛の本能を押しのけたのです。
（牛のまま死ぬなんていやだ！死にたくない！！逃げなきゃ！！）
「ムウゥゥゥゥオォォォォォォーーーッッ！！！」
絵梨は数百キロはある巨体を揺らしながら大声をあげました。驚いた神主の、綱を握る手が緩みます。
（今だ！）
人のいないほうへ向けて、絵梨は全力で駆け出しました。
「これ、まほらま号！お待ちくだされ！」
思わぬハプニングに、観衆がざわつきはじめました。
（痛っ…しびれるっ！）
突如、左後脚の自由がきかなくなりました。
若い神官が局部麻酔銃を撃ったのです。
「困った牛ですね、ここで暴れられちゃ」
絵梨が生き残るすべは、すべて断たれたのです。
「ははははは、怒りなさんな。御牛様の活きがいいほど、神様もお喜びなさるものよ」
そう言いながら神主が鼻輪を撫でると、絵梨の人間としての意識はまた薄れていきました。
御供えの儀式は順調に進みました。
絵梨の首にはしめ縄がつけられます。
神への贈り物を詰めたという箱が絵梨の背中にくくりつけられます。
神官が清めの水で絵梨の口をすすぎます。
神主が絵梨のためにいくつもの祝詞を詠みます。
近所の小学生たちが絵梨に祝いの言葉をかけます。
町内会長とか市会議員とか偉い人たちが次々と絵梨に祝辞を述べます。
御神酒が何本も絵梨の体にかけられます。
そして、いよいよ絵梨がやぐらへと上るときがやってきました。
神主が綱で鼻輪を強く引くと、絵梨の脚は反射的に運命の歩みを踏み出しました。
一歩、また一歩、絵梨はゆっくりと斜面を上ります。神主たち、そして、ギシッ、ギシッと鳴るベニヤ板の音と共に。
コツン。ひづめの音が急に鋭くなりました。やぐらの鉄板の上に着いたのです。鼻に軽い刺激が２度走り、絵梨は歩みを止めました。生きてここから下りることは、もうありません。
鉄板の熱さで暴れないように、絵梨の脚に重りが取り付けられました。
育ての親である神主は、絵梨の首と鼻輪から綱を外すと、鼻輪を優しく撫でながら別れの言葉をかけました。
「まほらま号、あなたは死ぬのではありませぬ。御牛様として神様のもとへと遣わされるのです。どうか心を安らかに」
「ムォー…ムォー…ムォォォーーー………」
「私もいずれ、神様のもとで再会いたしましょう。いってらっしゃいませ…うっ…」
絵梨の背中に緻密に生えた黒い毛が、いく粒もの温かい雫を丸く浮かび上がらせました。
【最終段階】
神主たち人間が下りた後、引火を避けるためにやぐらへの斜面の一部が取り外されました。
観衆の歓声が大きくなります。ついに薪に炎がともされたのです。
ペチペチ…ペチペチ…。
鉄の床と共に、絵梨のひづめが温まっていきます。
やぐらの下からたちこめる煙が、絵梨を覆いました。
「ヴォフォッ、ヴォフォッ！」
煙にむせながらもがく絵梨。しかし脚は重りでびくともしません。
薪の炎が順調に燃え広がるにつれて、鉄の床は温まる段階を過ぎ、熱せられていきました。
「ヴモォー！ヴムゥォー！」
絵梨は汗だくの首を激しく振って脚の熱さを訴えます。けれども、鉄板はますます熱さを増すばかりです。
脚の黒毛が発火します。新たな熱気が絵梨にショックを与えました。
ジョワヮァァァーーーッ！ジュジュゥゥーーーーーーー！！！
二本の後ろ脚の間からほとばしる液体。
失禁した絵梨の尿が、鉄板上でたちまちのうちに蒸発します。
「ヴブブモォー！ブヴモォーッ！」
脚からの熱ばかりではありません。鉄板からの放射熱も絵梨の腹に伝わってきました。とりわけ、敏感な上に垂れている乳房の熱さはたまらないでしょう。
さらに、首に下げたしめ縄が発火しました。
「ブブブムウォォーーーッッ！！」
炎への恐怖心から必死に首を振る絵梨。しかし、振れば振るほど炎は大きくなるばかりです。
続いて、しっぽの毛も発火しました。熱気に堪えきれず、絵梨の両後脚が折れ曲がっていきます。
「ヴブモォォー！」
乳首が鉄板に触れた瞬間、反射的に伸びる両後脚。しかし、すぐにまた耐え切れなくなって曲がってきます。
「ヴムォー！ヴフゥォー！ヴプウォォーッ！」
絵梨は熱さに苦しみながら半狂乱になって首を振ります。乳房が鉄板に焼きついて離れなくなり、続いて両後脚のひざがくずおれました。
「御牛様ー！」「御牛様アァァァッ！」
絵梨の腹へ当たる熱気と共に、下から見守る観衆たちの熱気も強くなります。
「きゃーっ！すごい！もうすぐよ！」
千晶も、玲香も、１０年に一度のスペクタクルに熱狂しておりました。
不意に煙が弱くなります。
絵梨は牛の広い視野で下界を眺めました。ここからならやぐらの建つ境内はもちろん、その下の街並みもよく見渡せます。
色覚を失った絵梨の大きな目には、黒い夕陽が空を灰色に染めておりました。
（この街を、こんなに高いところから見たのははじめてだな…）
生き物は死ぬ前に生涯の記憶を走馬灯のように見るといいます。
この街の景色を見ながら、絵梨は人間としての思い出をよみがえらせようとしました。
（あのあたりにあたしの家が…家が……）
しかし、絵梨には自分の家がわかりませんでした。
（家はどこ？）
脳裏に浮かぶのは、なぜか薄暗い牛小屋の中。
（学校はどこ？公園は？コンビニ？本屋？）
神社の境内の景色ばかりが思い出されてきます。
（ママ…パパ…？）
絵梨の頭を撫でる、夫婦のような男女が浮かんできました。
（千晶…玲香…？）
ふたりの少女が、絵梨に餌を与えています。
どれも、人間の絵梨の記憶ではありません。
（思い出せない…？なにも思い出せない！あたし…あた……あああああ………）
ああ、いくら思い出そうとしても、絵梨の人間時代の記憶は浮かんできません！
その代わりに、神社の境内や牛小屋の中、神官たちの顔といった光景ばかりが浮かんでくるのです。
初めて口に含んだ母牛の乳。
鼻輪を通されたときの痛い思い。
母や兄弟牛と別れて、この神社に来たときのこと。
境内でいたずらをして神官から説教をされたことと、神主にかばってもらったこと。
町内会行事で人を乗せて商店街を歩いたこと。
千晶と玲香というふたりの少女に餌をもらったこと。
勇作と佳枝という夫婦に頭を撫でられたこと。
神官たちの隙を見て神社を逃げ出したこと。
そして、ズゥンという衝撃と共に、自らが牛であることを再確認したこと。
はじめから存在しなかった小島絵梨という者としての記憶が、あるはずがないからです。
あの鼻輪は神の意思が込められた、神への遣いの証でした。神社から逃げたまほらま号は、鼻輪が外れたことでただの牛になってしまったのです。
しかし、神は自分への遣いがいなくなることを許しませんでした。そこで、とんでもないことを考えました。鼻輪を鼻ピアスに変えて道端に転がし、装着した人間を身代わりにしようというのです。
何も知らずに鼻ピアスをつけた小島絵梨という少女が、神に選ばれし者となりました。鼻ピアスが本来の鼻輪に戻ったとき、神は彼女を新たな神への遣いとするため、彼女のすべてを牛のまほらま号のものに変えてしまったのです。
絵梨のすべて。それは、彼女の肉体や精神だけではありません。人間の小島絵梨は、もとから生まれてこなかったことにされたのです。代わりに彼女は、神社の飼い牛、まほらま号として生まれ育ったことにされ、記憶までもまほらま号のものに変えられてしまいました。
だからこそ、千晶たち観衆はだれも絵梨を助けませんでしたし、絵梨が牛になっても驚かなかったのです。
これが、人間界の混乱を最小限にとどめるための、神の思し召しなのです。
人間として生まれ育ったはずのこの街。そして、両親、親友、クラスメイト、近所の人など、思い出深い人たちが並んだ観衆。それらに見守られながら、絵梨は果てていきます。更にかわいそうなことに、絵梨として偲ばれることもなく、御牛様として、生まれつきのまほらま号として果てなければならないのです。あのピアスさえつけなかったら、こんなことには…。
すでに今の絵梨の頭にはそこまでの考えはまわらなくなっておりました。言葉にできないような痛烈なやりきれない想いが、意識に残るだけでした。その想いも次第に融かされて、牛としての本能につくりかえられていくのです……。
「グムウォーーーーーーーーッ！！」
絵梨に残された人間の心がまさに消えんとするとき、悲痛な鳴き声が街中に響きわたりました。
もはやこの牛を“絵梨”と呼ぶことはできますまい。
グゥォォーッ……ペチペチペチペチペチッ…。
再び煙が強くなりました。
鉄板の縁から上にはみ出るほどに、炎は激しく燃え盛ります。
「ヴモーーッ！ヴフォーーッ！」
まほらま号の下半身はすでに動かなくなりました。必死に両前脚を突き立て、上半身で熱気に抵抗します。
しかしそれも限界がきたようです。とうとうまほらま号の両前脚が折れました。
「ヴゥーッ！」
まほらま号の腹全体が体重で鉄板に押しつけられて、毛と皮膚が激しく焦げます。
ジュゥゥゥ………。
「ヴ…ム…ムォ…」
胸から首、そして頭部全体に猛烈な熱さが伝わっていきます。
うっすらとした煙の中で、まほらま号は目を見開いて、半開きの口から長い舌を垂らしました。そして、そのまま動きを止めました……。
ドゥスンッ！！
ついにまほらま号の頭部が鉄板にたたきつけられました。
「御牛様ばんざーい！！」
満場の観衆の熱狂は頂点に達し、割れんばかりの歓声と拍手が境内を揺るがしました。勇作と佳枝も、激しく抱き合いながら歓声をあげておりました。
目を開けたまま動かないまほらま号を、鉄板の上まで達した炎が静かに包みこんでいきます。
【結】
御供えの儀式が終了して、観衆たちは三々五々と帰路につきます。
勇作と佳枝、千晶と玲香もそれぞれ神社を後にしました。
「あなた？どうしたの、その人形」
「射的でな、娘に取ってやりたくなったんだよ」
「何言ってるの？うちには子供いないでしょう」
「…そ、そうだな。俺どうしたんだろう」
「もしかしたら、娘って会社の女の子のことじゃないの？」
「ま、まさか！誤解だよ、佳枝」
「…そうね。あなたはそういう人じゃないものね」
「御供え、すっごく興奮したね」
「うん、１０年前とは大違い！」
「牛さんが死んじゃったって泣いてた、あのときの玲香とは大違いね」
「もう、千晶のいじわる。でもママからね、あの牛は神様のところに行ったって聞いて、安心しちゃった」
「今日の御牛様も神様のところに行けたのかなあ？」
「大丈夫、きっと行けたと思うよ」
「ところで、ねえ玲香。１０年前もふたりいっしょで御供えを見たよね」
「な、何よいまさら」
「この次の御供えも、ふたりいっしょに行きたいね！」
「そうだね、千晶！」
（感想用掲示板はこちら）
（解説はこちら）
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