姫神奇譚　外伝十話
「神の領域」
作：こうけい
（原案：亜希みちる）


その日、陸上競技場では記録会が行なわれていた。
男子１００メートル走の選手、平川康志が、午前の部の走りに挑む。
康志は一時期は全国レベルのタイムをたたき出していたほどのスプリンターだが、最近はスランプでタイムも後退気味。
今日の記録会で好成績を上げて、なんとか復活の糸口をつかみたいのだが…。

位置につく。ピストルが鳴る。ゴールめがけて疾走する。
康志は１０秒８５のタイムで３着に終わった。自己ベストの１０秒４８には到底及ばない数字だ。

（くそっ！この調子じゃ午後もだめに決まってる！もう俺は終わりなのか！？）
絶望のあまり天を仰ぐ康志。
次の瞬間、康志は自分の目を疑った。
着物を着た美しい女性が、空中に浮かんでいるのが見えたからだ。

「ああっ！みんな、空を見ろ！人が浮かんでるぞ！！」
しかし、ほかの者はだれひとりとして康志の言うことに同調しなかった。
「おいおい、何も見えやしないぞ！」
「平川、どうかしちまったのか？」
「あいつ、記録が出なくてやけになってるんだろ。ほっとけ」

（…どうなってるんだ？見えるのは俺だけなのか？）
そのとき、康志に空から語りかける声が聞こえてきた。
「あなたには、私が見えるのですか」
声は、空中に浮かぶ女性からのものだった。
「…は、はい」
「私は姫神古都音と申します。私に気づいてくれてありがとう」
「ど、どうしてあなたは空に？」
「私は神ですので空に浮かぶことなど自在なのです。
そんなことより、気づいてくれたお礼に、あなたの願いをひとつかなえてあげましょう。さあ、願いをどうぞ」
「……午後の部の走りで、記録を出したいです。自分の調子を取り戻せるような記録を」
記録に残るような走りをすることで、調子の流れを良くしたい。それは、康志の率直な願いだった。
「わかりました。午後の走りでは、私めがけて走ってください。必ずや私の加護があることでしょう」
そう言い残すと、古都音は姿を消した。
（うーん、まわりはだれも神様の声に気づいてないか…）

康志は、以前に先輩ランナーから聞いた話を思い出した。
『俺が大会記録を出したときな、女神が見えたんだ』
『女神ですか？』
『そう。着物を着た女神がゴールの前に見えてな、そいつに向かって無我夢中で走ったら、大会記録が出たんだぜ。あれが、スプリンターが見る神の領域ってやつだろうな』
（だったら、俺にも神の領域が見えてきたってことか！？）

男子１００メートル走、午後の部の走りが始まった。
５コースでクラウチングスタートをとろうとする康志に、またあの声が語りかけてくる。顔を上げると、ゴールに古都音が立っているのが見えた。
「いいですか。私めがけて全力で走ってください。途中で何が起こっても、ゴールまで駆け込むのです」
「わかりました。よろしくお願いします」
康志は小声で答えた。

位置につく。ピストルが鳴る。
康志は、目の前の古都音に向かって全力で飛び出した。
不思議と体が軽い。いいタイムが出せそうだ。これが古都音の御加護の力なのか。
「おおっ！平川がすごいぞ！」
まわりからはざわめきが起こった。
記録会参加者のほとんどの目が、１００メートルトラックに集中していた。

ところが、ダントツで５０メートルを過ぎたあたりからハプニングが始まった。
康志の視野の中で古都音が大きくなるにつれ、彼は不意に体調の変化を覚えたのだ。

まず、唐突に胸が重くなった。胸の筋肉が前のほうに垂れてきて、激しく揺れ始めた。
続いて、全身の力が抜けていく。体中の筋肉と骨の張りが弱くなったようにも思えた。
腰の感覚も妙だ。パンツの正面にあった圧迫感が、腰の内部のほうへ移っていくような気がした。その直後、腰は胸と同様に重くなり、揺れ始めた。
そして、皮膚が風を切る感覚が急に鋭くなったように思えてきた。

康志は一瞬走りづらそうな顔をしたが、それでも減速することなく、慣性に従ってゴールテープへと飛び込んでいった。
目の前の女神、古都音に言われた通りに。

「１着５コース、１０秒４５！」
電子計時を見ながら、審判員たちが驚きの声を上げた。
「平川が復活したな！自己ベスト更新だ！」
「風はどうだ！」
「向かい風０．５メートル！公認記録です！」
（作者注：追い風が２メートル以上になると記録は公認されず参考記録となります）
そこへ、別の審判員が駆け込んできた。
「おい、今の１着、女子じゃなかったか！？」
「えっ？男子の部ですけど」
「５コースでゴールしたのは女子だったぞ！」
審判員たちはあわててグラウンドを見る。
ゴールしたまま惰性で走る５コースの選手は、まぎれもなく女子の体をしていた。しかし、彼女は康志のユニフォームとゼッケンをつけているではないか。
そう、康志はわずか数秒の間に、走りながら女子へと変身していたのだ。当人はただの体調の変化だと思っていたが。
「女子…ってことは、世界記録更新か！？」

康志の耳に、また古都音の声が聞こえてきた。
「おめでとうございます。世界記録更新ですよ」
「えっ？俺そんなに速かったか？…えええええっ！？」
康志はようやく、変身した自分の姿に気づいたのだった。
「女子の世界記録だなんて、さすがです。これで調子は取り戻せましたよね？
私の役目は終わりました。それでは」
古都音は、錯乱状態になった康志の視界から姿を消した。

審判員たちはまだもめている。
「今の平川のは男子の記録なのか？それとも女子の？」
「走り終えたときは女子なんだから、女子でいいだろ！ま、さすがに彼女はもう二度とこの速さでは走れないだろうけどな」



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